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ブログ―市史編さん草子「市史で候」最新テーマ:「清瀬 鉄道物語 ~西武線編~」

更新日:2017年10月12日

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企画部市史編さん室のブログ、市史編さん草子(ぞうし)「市史で候(そうろう)」が平成26年5月30日始動!
市史編さんの進捗状況を報告するほか、清瀬市の歴史・文化・自然を随時紹介。
市史編さん室キャラクター「市史爺(ししじい)」も登場。 清瀬市に関する情報・資料(史料)・思い出も大募集しています。
頂いた情報や思い出は、適宜ブログ内でご紹介させていただきます。
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四十二の巻:「清瀬 鉄道物語 ~西武線編~」【平成29年10月6日更新】

「どちらにお住まいですか?」
「清瀬です」
「清瀬…?」

こういう展開になったとき、電車の駅で説明する方が多いのでは?
「西武池袋線の清瀬です。所沢のちょっと手前です」
「ああ、なるほど」

                        rail.png

train.face.png駅はまちの玄関口。
ところで、清瀬の駅っていつごろできたかご存じですか?

あ、その前に、まず路線がいつできたかお話しましょう。
池袋から飯能までの鉄道が開通したのは、大正4(1915)年のことでした。
開通当初は単線で蒸気機関車が列車を牽引。鉄道の名前は「武蔵野鉄道」といいました。

このとき、池袋~所沢間の駅は、東長崎、練馬、石神井、保谷、東久留米の5駅のみ。
清瀬には、まだ駅がありませんでした。

今、市域には2つの駅がありますが、先にできたのは大正6(1917)年開業の秋津駅です。
その後、大正11(1922)年に池袋~所沢間が電化されたのを受けていくつかの駅が増設されたのですが、そのうちのひとつが、清瀬駅。
大正13(1924)年に開設されました。

『清瀬市史』(昭和48年刊)に、そのころの様子が書かれています。


開業当時は付近に農家がわずかと勤め人の住宅が数軒あるだけで、商店などは皆無の野中の駅であり、1日の乗降客も昭和初年までほんの数十人を出なかった。


やがて、昭和6(1931)年に東京府立清瀬病院ができると、

休日などには見舞客の状況などでしだいににぎわい、戦時中には駅前に療養所行きの10人乗り馬車が3台お目見えするなど、ようやく活気づいてきて、商店などもぼつぼつ現れるようになった。

といいます。

療養所の数が増え、見舞客が多く乗り降りするようになっても、改札は北側だけ。
保谷よりこちらは単線で、電車は30分に1本だけでした。

「武蔵野鉄道」は、昭和20(1945)年、合併により「西武農業鉄道」となり、さらに翌21(1946)年、社名変更して現在に至る「西武鉄道」となりました。*

                        rail.png


train.face.png写真に残る駅のようすから時代を振り返ってみましょう。

右の写真に納まっているのは、清瀬駅2代目駅舎です。

昭和28(1953)年、昭和30年代の清瀬駅
清瀬まで複線化されたのを受けて登場しました。

この「小さいながらもモダンなデザイン」の駅舎ができたとき、清瀬はまだ「村」でした。

2代目駅舎は、後に橋上駅にかわるまで、清瀬が村から町へ、そして市になるまでの日々を見守ったのでした。

この写真は、昭和30年ごろのものです。
駅舎は、けやき通りを直進すると改札口に通じる、という位置にありました。

車の陰になっているのが入口改札、右側に見えているのが出口改札です。

駅舎向って右に売店があり、左手には「バス乗車券発売所」が写っています。

昭和30年代清瀬駅改札口アップ



写真奥に看板があるのですが、小さいので拡大してみましょう。

右側の黒っぽい看板の白い文字は、人影越しに「保〇同人」と読み取れます。
隠れているのは「健」の文字ではないでしょうか。

「保健同人」は、結核療養者のための指導啓発雑誌でしたから、療養所がたくさんあった清瀬に、いかにもふさわしい看板と言えますね。


               rail.png



train.face.png

昭和30年代から清瀬でも宅地化が進み、都心への通勤通学で清瀬駅の乗降者数も増えていきます。

昭和40年代に入ると、2000戸を超える公団旭が丘団地のような大型団地もでき、人口は一層の増加を見ました。

昭和40年代清瀬駅通勤風景
昭和42(1967)年11月、清瀬駅南口広場ができ、南口と北口を結ぶ歩道橋ができましたが、改札は依然北口側のみでした。

写真は、北側の改札から線路を渡ってホームに向かう人たちの様子です。(昭和40年代)

停車中の電車は「池袋」行き。
歩道橋を渡る人の姿も写っています。


ようやく昭和45(1970)年、清瀬駅も現在のような橋上駅になり、南側からも北側からも利用しやすい駅になりました。








                         rail.pngtrain.face.pngだんだんと近い記憶に連なりますが、年号が変わって平成に入ると、清瀬駅の新しい表情が見え始めます。
平成7(1995)年、清瀬駅北口再開発事業完成。
北口の現在の風景が現れます。

続いて地下鉄との乗り入れ運転が始まります。

平成10(1998)年、西武池袋線~有楽町線相互直通運転開始、
そして、
平成20(2008)年には、西武池袋線~副都心線相互直通運転開始。

相互乗り入れによって、清瀬からディズニーランドまで、有楽町線の新木場で一度乗り換えるだけで行けるようになり、
平成25(2013)年には副都心線・東急東横線が乗り入れ運転で繋がって、横浜中華街には清瀬から直通で行けるようになりました。

乗り入れ開始のころ、都心の地下鉄の駅で、あるいは東横線の駅で、入ってくる電車が「清瀬」行きだと、「おっ!」と思ったものですが、これももう今は昔の話になりつつありますね。

地下鉄との相互乗り入れのおかげで、「清瀬」の名前を広い範囲で見かけるようになりました。
そして、今年の夏!
清瀬のひまわりが西武鉄道の「花さんぽ」で取り上げられ、市外からたくさんの人が清瀬駅に降り立ちました。
清瀬の認知度もぐんと上がったことでしょう。
                        rail.png


12月には秋津駅開業100周年を迎えます。
ん? それにしては、秋津駅についての記述が少ないんじゃない?

そうなんです。
秋津駅は東村山・所沢・清瀬の3市にまたがる駅で、池袋寄りのホームの一部が清瀬です。
市域で最初にできた駅ですが、実は秋津駅に関する資料がなかなか見つかっていません。

そのようなわけで、秋津駅については、資料が集まってから改めてご紹介したいと思っています。

昔の秋津駅の駅舎や駅周辺の写真、関連資料をお持ちの方、ぜひ情報をお寄せください!
 

2017年10月8日から、清瀬市郷土博物館1階のガラスケースにて「清瀬鉄道物語」の展示が始まります。
清瀬駅開設に関する行政文書や時刻表、写真パネルが展示されます。
それから、ここだけの話ですが、「もうひとつの幻の清瀬駅」に関する展示もあるとか。 乞うご期待!


今回は市域に駅を有する西武池袋線と清瀬に焦点をあててまとめました。

*西武鉄道の歴史には、主に現在の西武池袋線にあたる「武蔵野鉄道」と西武新宿線にあたる旧「西武鉄道」、「食糧増産」の合併(昭和20年「西武農業鉄道」の誕生)までにいろいろな変遷がありましたが、その説明はいささか長いお話になるので、ここでは多くふれませんでした。

清瀬市域の鉄道としては、西武池袋線のほかにJR武蔵野線が主に高架で市の北部を通っていますが、こちらについてはまた後日別編でご紹介したいと思っています。

 
参考資料:
『清瀬市史』 清瀬市 1973
『写真集 清瀬 村から町へ、そして市へ ~120年のあゆみ~』 清瀬市郷土博物館 2010
今尾恵介『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み 関東2 京王・西武・東武』 白水社 2015
小林尚智・諸河久『日本の私鉄12 西武』 保育社 1990

写真提供: 清瀬市郷土博物館 

 

四十一の巻:「清瀬中学校で縄文時代の石器を発見」【平成29年9月15日更新】

IMG_6945.JPG~ 市史編さん委員会 考古部会から ~



平成29(2017)年6月某日、清瀬中学校で縄文時代の石器を発見しました(写真左)。




とはいえ、清瀬中学校で発掘調査をおこなったわけではありません。


かつて清瀬市内で発見された石器が、長い間清瀬中学校に保管されていたのです。







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      昭和41(1966)年に東京都教育委員会が発行した『北多摩文化財総合調査報告』に、
  清瀬町内の遺跡が7か所紹介されています。


     そのうち「野塩・外山(八幡神社付近)」、「野塩・外山(円福寺付近)」、
  「中里・金山道」の出土品が清瀬中学校所蔵とされていました。
  (右の地図をご覧ください)


      出土品の内容には、

      縄文土器(中期)、石鏃(せきぞく:石の矢じり)、
      打製石斧(だせいせきふ:石を割って作られた斧のような形の道具)、
      石皿(いしざら:すり痕のある大きな石の道具、うすの下石として使用された)、
      土師器(はじき:古墳時代~奈良・平安時代の素焼きの土器)  があげられています。


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IMG_6940.JPG
今回清瀬中学校で見つけることができたのは打製石斧と石皿片などの石器計40点です。 (冒頭の写真)


『北多摩文化財総合調査報告』に掲載されている「4. 野塩円福寺付近発見石器」の写真と照合してみましょう。 (写真左)


このうちの4点が今回見つかった石器に含まれています。 (写真右)


野塩地域では、これまで野塩外山遺跡、野塩前原遺跡、野塩前原東遺跡で発掘調査が行われ、縄文時代中期(約5,500年前~4,000年前)のムラの跡が見つかっています。


野塩地域は発掘調査が行なわれるずっと以前から、地元の方々には土器や石器が出ることが知られていたようですね。




    中里・金山道では発掘調査は行われていませんが、同じく縄文時代中期の土器や石器が見つかっています。


        清瀬中学校発見の石器も、その特徴と、発見地近くの発掘調査や採集資料からわかった遺跡の内容から、
    縄文時代中期の石器と考えられます。


        昔の人たちが暮らしていた場所=遺跡と、そこで使われていた道具=土器や石器などは、昔の人たちの直接の生活の証です。
    土器や石器を手にとり、静かに目を閉じれば、遠い古の先人たちの暮らしを想いしのぶことができるでしょう。
    もしかしたら、あなたの先祖が使ったものかもしれませんよ!
 

    今回見つかった石器は、これから洗浄、写真撮影、実測図の作成、計測、特徴などを記載して、報告書を作成します。
        こうすることで清瀬市の縄文時代を考えるための新たな資料として加えることができます。
    一つ一つの遺跡や資料からわかることをたくさん集めていくことが、清瀬市の歴史、
    ひいては私たちの国の歴史や文化の成り立ちを理解することにつながっていきます。

        
    ところで、清瀬中学校に伺った時のこと。教材室の中央の机の上に段ボールに入った石器が置いてありました。
        校長先生のご指示の下、あの部屋のどこかで石器を発見した方が、私たちが見つけやすいように置いておいてくださったそうです。
        この場を借りてお礼申し上げます。

        清瀬中学校の小島校長先生には、お忙しい中校舎を案内してくださり、他にも貴重な資料をご提供いただきました。
        ありがとうございました。


        考古部会では、市内の考古資料、遺跡の情報をひきつづき求めています。ご協力くださいますようお願い申し上げます。

 

         参考文献:
         東京都教育委員会 『東京都文化財調査報告書18 北多摩文化財総合調査報告 第2分冊』1966年発行
         清瀬市『清瀬市史』1973年発行
         小林達雄編『考古学ハンドブック』2007年発行
         文化庁文化財部記念物課監修 独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所編 『発掘調査のてびき―整理・報告書編―』 2010年発行

 

このページに関する問い合わせ先

市史編さん室市史係
郵便番号:204-8511
住所:東京都清瀬市中里5-842 健康センター2階
電話番号(直通):042-497-1813
電話番号(代表):042-492-5111
ファクス番号:042-492-2415

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