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ブログ―市史編さん草子「市史で候」【平成26年12月更新分】安眠ゾーン・リハ学院

更新日:2015年04月14日

バナー12月分

企画部市史編さん室のブログ、市史編さん草子(ぞうし)「市史で候(そうろう)」が平成26年5月30日始動!
市史編さんの進捗状況を報告するほか、清瀬市の歴史・文化・自然を随時紹介。
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五の巻之五 「「安眠ゾーン」が見てきたもの」【平成26年12月24日更新分】

「安眠ゾーン」って何のことかわかりますか?
え? 枕の話?
いえいえ。道路の話です。birdhouse.png

つい今年、平成26(2014)年の8月まで、「安眠ゾーン」の入り口、梅園駐在所前の交差点に、夜間自動車通行禁止の標識が立っていました。
21時から6時まで車両通行禁止(路線バス、原付を除く)。
標識が掲げられたのは、昭和47(1972)年7月のこと。
清瀬の病院街は、全国に先駆けて「安眠ゾーン」が指定された地域でした。

指定ゾーンを示す市報の記事を見てみましょう。
「市報きよせ」昭和47(1972)年7月15日号の1面に掲載された記事です。

tree.colour.png    安眠ゾーン市報記事 

松山、梅園、竹丘地域は、ご存じの通り、結核療養所として始まった病院が建ち並ぶ一帯。
一方、清瀬で最初に信号ができたのが昭和41(1966)年のことで、自動車の増加とともに、排気ガスによる公害や騒音、事故への注意が呼び掛けられ始めていました。

昭和47(1972)年の市報には、「月に一日 車のない生活を考えよう」という「ノーカーデー」呼びかけの記事。毎月第3日曜日、車のない生活を考えて、交通事故や排気ガスの公害をなくそうという運動です。      
交通安全のため全国で「スクールゾーン」の設定が始まったのもこの年でした。     car    car    car

安全、安心な市民生活と自動車利用との上手な兼ね合いを考えるなかで、都から騒音規制法にもとづく特別地域(昼間45ホン、夜間35ホン以下)に指定されていた病院街で、夜間の車両通行を禁止する「安眠ゾーン」が指定されたのは、もっともなことだったといえるでしょう。

それでは、当時の病院街の様子を見てみましょう。
この写真、どこだか、わかりますか?

結研付属療養所木造病棟
右上に清瀬第三小学校、病棟の奥、写真の上に清瀬第七小学校、左上に昭和48(1973)年開校の都立清瀬高校が見えます。中央に写っているのは緑に囲まれた結核研究所付属療養所(現・複十字病院)の旧病棟です。


tall.tree.png病院街も変化の時代を迎えます。
木造の療養病棟は次第に鉄筋病棟に姿を変え、昭和37(1962)年の国立療養所東京病院統合以降、それぞれの結核療養施設は一般病院へ、新たな道を歩み始めます。
写真の木造病棟も、ほどなく鉄筋病棟にかわっていきます。
病院街も、療養所や病院ばかりの一角ではなくなり、一般住宅の数も増えました。

自動車の排気ガス制御や静音性の性能も進化、「安眠ゾーン」は役割を終え、病院街の変化を見届けて平成26(2014)年2月12日規制廃止。梅園駐在所前交差点の規制標識も、その後撤去されました。

冬の一日、病院街を歩いて「安眠ゾーン」が見てきたものに思いを馳せてみませんか?
長く病院街を見てきた松山緑地保全地区の大きな樹が、何か教えてくれるかもしれません。


littleflower.png

☆写真は結核予防会提供。許可を得て掲載しています。
*各病院の周年誌、警察白書等の資料を参考にしました。
*「安眠ゾーン」の市報記事は、市報きよせ縮刷版第1巻に載っています。中央、駅前、下宿、野塩、竹丘の各図書館でご覧いただけます。

 

五の巻之四 「日本の「リハビリ」専門教育発祥の地 きよせ」【平成26年12月12日更新分】

久しぶりに病院街の歴史紹介シリーズです。

第4回では、「東京病院付属リハビリテーション学院」についてお話しましょう。

bar.blueflower.png 

「リハビリ」という言葉は、もうすっかりおなじみの「日本語」ですが、もともとは rehabilitation リハビリテーションという英語です。

普段、私たちが「リハビリ」というとき、病気やケガなどで低下した体の機能を、回復させたり改善させたりする訓練風景をイメージしていますね。

こうした医学的な面だけでなく、本来、リハビリテーションは、精神的、社会的な面も含めて、障害のある人や高齢者が生き生きと社会で生活できるようにするための取組みとして、広くとらえられています。日本の医療に、リハビリテーションの手法が導入されたのは、戦後のことです。

そのスタートを担った専門家たちを養成したのが、清瀬の東京病院付属リハビリテーション学院でした。tree.bluebird.png

日本のリハビリ専門教育は清瀬で始まったのです。

リハビリテーション学院は、国内で最初にできた理学療法士(Physical Therapist, 略称PT)、作業療法士(Occupational Therapist, 略称OT)の専門養成施設でした。

どこにあったかというと…

リハ学院校舎配置図

梅園1-2-7。

複十字病院の斜め向かい、都立小児病院の東隣にありました。
上の校舎配置図でいうと図の左側が小児病院、右下が複十字病院です。

開校当時の校舎は、東京病院清瀬病棟(もと府立清瀬病院)の建物を改造したものでした。
「旧炊事場の改造建物を1教室、1事務室、1応接室と校舎にした」と「学院の沿革」*にあります。

リハビリテーション学院は、昭和38(1963)年5月1日、国立療養所東京病院付属の機関として開校しました。
写真は、開校式の様子です。

リハ学院開校式のようす

この年、昭和38(1963)年、東京大学の医学部にはリハビリテーション部が開設され、日本リハビリテーション医学会が発足。
まさに、始まりの年だったのですね。

リハ学院授業風景リハビリテーション学院の最初の教員は、イギリスやアメリカから招かれた専門家たち。

授業は英語。

臨床実習は、東京周辺の米駐留軍病院の施設と関係者の協力を得て実施されました。 

卒業生が当時を振り返って記した文章には、
「実習先は米軍のキャンプ先が中心でベトナム帰りの傷痍(しょうい))軍人を対象に指導者にしごかれたものである」「そうしてまでも教育の水準を世界的レベルでやろうと努力された多くの関係者、(個人名を列挙)、多くの外国人教師に感謝したい」
とあります。

昭和40年代半ば以降は日本人専門家による教育になり、実習も国内の国公私立病院などの施設で行われるようになりました。

理学療法学科、作業療法学科ともに1クラス、入学定員20名。修業年限3年。社会人経験を経て入学してきた学生も多く、新しい知識、技術を真剣に、熱心に学んだといいます。

平成20(2008)年4月1日に閉校されるまでに、理学療法学科784名、作業療法学科730名、総計1,514名の卒業生を全国に送り出しました。

清瀬は、日本のリハビリの礎石を築いた人たちの学びの地だったのですね。


bird2.pngそれにしても、なぜ、清瀬だったのでしょう。

そこには、新しい治療法に関心を寄せた清瀬のドクター達の姿がありました。

結核研究所の島尾忠男所長は、昭和30年春から1年間、スウェーデンに留学。結核対策や社会福祉から公衆衛生までを学ぶなかで、理学療法士の存在や患者の運動療法にも注目。スウェーデン語で書かれた専門書を帰路の船中で翻訳し、帰国後昭和32(1957)年、『肺機能訓練療法』として結核予防会から出版。日本語で理学療法を紹介します。

東京療養所の長澤誠司医長は、昭和32(1957)年に留学。帰国後、理学療法を取り入れて病院の作業患者に体操を始めるなどしたのは、留学先イタリアの療養所での経験が反映されたものでした。

昭和36(1961)年には、東京療養所の芳賀敏彦医師がデンマークに留学。リハビリテーションの実際とPT(理学療法士)、OT(作業療法士)の教育に関心を持ち、世界PT連盟の関係者にも連絡をとり、養成の世界的傾向を把握して帰国。昭和37(1962)年9月、日本医事新報に「Physiotherapist養成のすすめ―外国のPT教育体系について―」**を発表します。

社会的な要請もありました。

昭和38(1963)年には、医療制度審議会が「医療制度全般についての改善の基本方策に関する答申」のなかで、PT(理学療法士)、OT(作業療法士)などについて教育、業務内容の確立等、その制度化を早急に図る必要があると指摘します。

リハビリテーション学院は、こういった流れの中で開設されたのです。

それは、昭和37(1962)年、清瀬病院東京療養所が合併して東京病院となって最初の大きな事業でもありました。

 『リハビリテーション学院閉校記念誌』(2008)のなかで、長澤誠司第3代学院長・名誉院長は、次のように述べています。

「永年、東京病院の院長であった砂原茂一先生はリハビリテーション(以下リハ)への(造詣(ぞうけい)、関心が深く、結核恢復期(かいふくき)患者の作業療法病棟(外気病棟)を設け、また呼吸器外科のリハを行っていた。そんな理由で、日本で最初のリハの学校が東京病院付属として誕生した。その後の様子は関係者によって記されるでしょう。閉校は栄光の撤退である。リハ学院おめでとう」

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病院街に最初にできた府立清瀬病院(後の東京病院清瀬病棟)の敷地に、日本初のリハビリテーション教育施設があったのです。

梅園は、清瀬の病院街の、そして日本のリハビリ専門教育の「始まり」の地なのですね。

清瀬から巣立ったリハビリテーション学院の卒業生たちは全国の医療現場で活躍し、研究を続け、明日のリハビリの担い手を育てています。

学院の「親元」東京病院でも、現在に至るまで毎年1回のリハビリテーション研修という形でリハビリ教育の灯が続いていることを言い添えて、五の巻之四おわりといたしましょう。

 bar.blueflower.png


*リハビリテーション学院跡地に建てられた記念碑*
リハ学院石碑
<碑文>

わが国最初の理学療法士、および作業療法士専門養成施設発祥の地。

国立療養所東京病院付属リハビリテーション学院 
昭和38年5月1日厚生省によって設立された。

初代学院長 砂原茂一

パイオニア精神に基づいた全人的医療教育が行われた。

独立行政法人国立病院機構東京病院付属リハビリテーション学院として平成20年4月1日閉校となる。

 bar.blueflower.png

littleflower.png 
☆文中の肩書は、それぞれ当時のものです。  
☆『リハビリテーション学院閉校記念誌』、砂原茂一、上田敏、芳賀敏彦各氏の著書等を参考にしました。 
 
*校舎配置図、写真、引用文は、『リハビリテーション学院閉校記念誌』より、東京病院の許可を得て掲載しています。

**Physical Therapist は米国式、Physiotherapistは英国式の言い方です。

このページに関する問い合わせ先

市史編さん室市史係
郵便番号:204-8511
住所:東京都清瀬市中里5-842 健康センター2階
電話番号(直通):042-497-1813
電話番号(代表):042-492-5111
ファクス番号:042-492-2415

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