きよせ結核療養文学ガイド ブンガくんと文学散歩 <結城昌治 1. 直木賞作家の若き日>
B ブンガくん O 樹の上の声(オナガ)
結城昌治 1. 直木賞作家の若き日
B 今回は、どんな作家の話なの?
O 結城昌治(ゆうき しょうじ)のことを話そう。
B 結城さんって、何回か話に出てきた人だよね。たしか、なにか大きな文学賞を受賞した人だったような...
O よく覚えていたね。推理小説やハードボイルドを得意としたのちの直木賞作家だ。
B 芥川賞を受賞した吉行淳之介と郷静子に続いて、直木賞作家の話なんだね。たのしみだな。
O 結城は、昭和2年(1927)、東京の品川区に生まれたんだ。学生時代は「硬派の不良」で、ほかの学校の不良とよくケンカをしたそうだ。ケンカ好きというわけじゃないんだが、仲間がケンカしていると聞くと応援に駆けつける。意志が弱く、多少の見栄もあった、というのが本人の弁だ。柔道に入れ込んで、放課後の練習のあと、夜は町の道場にも通って、黒帯をとる。
B へえ、強そう!
O 学校にはちゃんと行っていたけれど、なにしろ不良だから、先生の受けはよくない。教練と体操の先生ににらまれる。もともと勉強好きじゃなくて、自然と成績も下がり、進学も希望通りにはいかなかったんだ。
B ありゃ...
O 高望みせず、無試験に近い感じで入れる学校を受けたにもかかわらず、合格できなかった。どうやら素行点が悪すぎて、内申書の段階で落とされていたらしい。
B それで、どうなったの?
O 結局、進学はあきらめる。国家総動員体制で、卒業してからも勤労動員は解除されていなかった。進学しても勤労動員は同じことで、働く工場が変わるだけ、といった具合だ。
B じゃ、合格したかどうかは、あまり大きなモンダイじゃなかったってことか。
O 勤労動員は、悪友とよくサボったそうだ。軍国少年としては、これは内心やましかったから、埋め合わせに、国のために死のうと考えたりもした。
B え~、埋め合わせに命かけちゃうの⁈
O 級友がつぎつぎに軍隊に志願するので、結城も続くんだ。国を守るために命を捨てても惜しくない、と本気で思っていたのは事実。ただ、死が美化されるあまり、死ぬということが実感としてわかっていなかった。わかっていたら志願なんかしなかった、とも語っている。
B 僕だったらどうしたかなぁ
O 昭和20年4月、結城は18歳で海軍特別幹部練習生に志願する。アメリカ軍が沖縄に上陸し、本土決戦も避けられないか、という厳しい時期だ。結城は後年、このときの心境を次のように振り返っているよ。
しかし同時に、国のために死ぬという軍国主義少年であったこともたしかです。(略)「悠久の大義に生きる」などと言われても、何のことかわかりませんが、いずれ国のために死ぬんだという覚悟を決めていたんです。
(『死もまた愉し』)
B 郷静子さんもそうだったけど、結城さんの人生にも戦争の影があるんだね。「国のために死ぬ」かぁ...。
O ところが、だ。結城は、いよいよ正式に入団式が行われるという朝、名前を呼ばれて集められた50人ほどの中にいて「おまえらの体は海軍に向かない」と帰郷命令を受ける。どうやら海軍で受けた身体検査の結果、肺結核の疑いが出たらしい。結局、戦地に赴くことはなかったんだ。その時の心境について「正直な気持、助かったと思いました。あんなに嬉しかったことは、その後も二度とありません」と回想している。
B え?志願したんじゃなかったの?それなのに家に帰されるのが嬉しかった??
O 実は入ってからの軍隊の鉄拳制裁に参っていたようで、志願したことを後悔していたんだ。
B てっけんせいさい??
O 「大東亜戦争勝ち抜き棒」と大書した棍棒で理由もなくやたら殴られたそうだ。その理不尽さは聞きしにまさるものがあり、「たまったものではありません」と。
B うひゃ、それじゃ、戦う前に戦意喪失しちゃいそうだね。それにしても、戦地に行かなくてすんだのはよかったけど、このときから結核なんだね。
O ただ、このときはまだ、「疑い」があるといわれても、自覚症状はなかったし、結城としては、元気な自分が結核だなんて信じられなかったようだ。
B 黒帯だもんね。
O いやいや、それとこれとは、別。軍隊は集団生活だから、結核患者が中にいたら、あっという間に広まって、結果、戦力が低下する。だから「疑い」で帰されたわけだ。
B なるほど。それで、結城さんのその後は?
O 酷い空襲にも遭ったけれど、何とか生き延びて、戦後、就職。働きながら夜間学校で学ぶんだ。早稲田専門学校法律科(のちの早稲田大学第二法学部)に入学する。仕事は、勤めては辞め、勤めては辞め、の繰り返しで、なかなか定職には就かなかった。そうして2年が経ち、東京地方検察庁職員の募集広告を見た結城は、ダメ元で受験。意外にもみごと採用される。
B へええ、東京地方検察庁!
O 「検察庁といえば、犯罪に関係がありそうで、好奇心がそそられました」と言っている。ところが、配属先は犯罪とは直接関係のない部署で、自分が思っていたような仕事は回ってこなかったらしい。
B ってことは、また嫌んなっちゃった?
O そう。毎日、辞めることばかり考えていたんだそうだ。
B 結城さんは、ほんとにお勤めが苦手なんだね。せっかくお堅いところに就職したのにね。
O ところが、検察庁に勤めてから3か月ほどたった梅雨どきの薄ら寒い時候に、熱を出して寝込んでしまう。風邪をこじらせたかと思っていたけれど、熱はなかなか下がらない。医者にレントゲンを撮ったほうがいいといわれて慶応病院へ。レントゲン検査の結果、左右両方の肺に結核の症状が出ているのがわかったんだよ。結城は、まさか本当に結核だなんて信じられなくて、ほかの患者のレントゲン写真と間違えたんじゃないかと、思わず医者に聞きなおしたほどだった。数か月前、検察庁の採用試験で受けた身体検査では何ともなかっただけに、にわかには信じられなかった、と回想しているよ。
B このタイミングで結核かぁ...。予期していなかっただろうから、その診断結果はツラかったに違いないね。検査で結核とわかって、すぐ、清瀬で手術したの?
O 療養所に入る手続きはしたものの、当時は結核患者がたくさんいて、どこの療養所も満員。ながく入所待ちをする時代だったから、結城は病床が空くのを待ちながら、通勤、通学していたんだ。
B えぇー、結核なのに、通勤、通学って、だいじょうぶなの?
O 結核は空気感染する病気なんだから、本来はダメだよね。今じゃ考えられないけれど、時代の空気というか、なんというか。
B まだしばらく、療養所には入れなかったの?
O 翌年、ようやく入所許可の通知が届き、卒業試験だけは済ませて、昭和24年2月7日、結城は清瀬の療養所に入る。この年は、4年制の新制大学が発足した年で、結城が通った早稲田専門学校は3年制だったけど、もう1年延長すれば学部卒の資格がもらえることになっていた。だけど、命が危ない身にとっては学歴がどうのこうのと贅沢は言っていられない。療養所に入ったのは、22歳の誕生日の2日後のことだった。
B 東京療養所!
O そう。のちの直木賞作家を生む療養所の日々については、次回、話そう。
(引用)
結城昌治『死もまた愉し』講談社文庫 2001年12月
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