きよせ結核療養文学ガイド ブンガくんと文学散歩 <福永武彦 2. 結核発病 清瀬へ>

ページ番号1009206  更新日 2024年2月2日

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木のはのライン

福永武彦 2. 結核発病 清瀬へ

B ブンガくん O 樹の上の声(オナガ)

オナガのイラスト

B 待ちくたびれちゃった~ 早く、続き、つづき!

O よし。では話すとするかな。福永はだね、堀辰雄との出会いからさらに創作活動に励んでいたんだが、昭和20年の春、急性肋膜炎で本郷の東大病院に入院するんだ。退院後に福永は、静養を兼ねて北海道帯広市に疎開する。結婚相手の伝をたどっての帯広だ。

B 北海道かぁ。遠くに行ったんだね。転地療養して、よくなったの?

O 終戦の年の秋には旅に出たり、執筆したりしているんだが、体調はなかなか思わしくならず、とうとう肺結核になってしまう。帯広療養所に入所したんだが、東京へ行って手術を受けない限り命の保証はしない、と宣言されてしまって…ギュイ~
昭和22年の秋、清瀬の東京療養所に入ることになった、というわけだ。

B それで、清瀬に来たんだね。でも、どうして清瀬だったの?

O キュイ~キュイ~ いい質問だ! 清瀬には、結核療養所がたくさんあった、というだけじゃなくて、「不治の病」ともいわれた結核をどうやって治すか、治療の方法を熱心に研究して患者に向き合っていた優秀なお医者さん達がたくさんいたんだ。
手術を受けるなら、腕のいい先生のいる病院で、と思うだろう?

B なるほど。だから遠くからもやってきたんだね。だけど、手術しないと死んじゃうだなんて、結核は恐ろしい病気だったんだね。

O そうなんだ。簡単には治らなくて、結核で苦しんでいる人が実にたくさんいた時代だ。やっと見つかった結核の薬もまだ自由に使える状況ではなくて、療養所に入っても、いい空気のなかで、安静にして、栄養をとる「大気・安静・栄養」が基本の時代だったんだ。
亡くなる人も多かった。昭和10年から25年まで、日本の死因のトップは結核だったんだ。そんな中で、手術は数少ない積極的な治療の道だったから、結核患者は肋骨を何本か切るたいへんな手術であっても、そこに希望を見出そうとしたんだ。しかも病状によっては、手術を受けられないこともあったしね。いろんなかたちで迫りくる生と死の問題に否応なく向き合わなきゃならなかったんだよ。

B そうかぁ…きびしいな。福永も、そんな状態じゃ小説を書くどころじゃないよね…

O ギュイ。東京療養所で、福永の厳しい闘病生活が始まる。のちに当時の心境を振り返って、福永はこんなふうに書いているよ。

思い出せば、僕が初めて療養所へはいつた時に、僕は成形手術を含めて、半年の後には元気になって退所できるつもりでいた。(略)
半年が一年になり、一年が三年になり、幾度も危機を繰返し、痛いほどに孤独を意識して、人は遂にこのしたたかな強敵と、それに立ち向つている非力な自己とを見る。
(「病者の心」)

 結局、福永は昭和22年10月から昭和28年3月まで、清瀬で療養生活を過ごすことになったんだ。ちょうど29歳から35歳ぐらいの働き盛りだったんだが…
その間には、妻の原條あき子と離婚もしていて。私生活にも大きな影を落とした福永の孤独は、深まるばかりだったんだ。ギュイ~

B つ、つらすぎる…。半年の入所のつもりが、そんなにかかってしまったのか…。しかも、奥さんと離婚してひとりぼっちになったなんて、救いがないじゃないか…

「風土」の表紙画像

O たしかにブンガくんの言う通りではあるんだが、東京療養所での足掛け7年は、ただむなしく過ぎただけではない。「作家 福永武彦」を形成した時間にもなったんだ。
中でも、堀と出会ったころから書き始めていた小説「風土」を10年がかりで完成させたのは、療養中の大きな成果だ。

B 「風土」が完成したんだ。よかったね! 福永さんは、小説を「堀さんの方向に沿って、堀さんとは違ったものを書く」って言ってたけど、清瀬で療養中に、それが達成できたんだね。

O 「風土」を書き終えた福永が師匠の堀辰雄に宛てた手紙は、当時の心境をよく伝えている。便箋4枚に縦書きの細かい文字でびっしり書かれたこの手紙は、こんな書き出しで始まるんだ。

久しく御無沙汰してしまひました それがもうあまりに久しくなってしまつたため、お便りしようと思ふたびに気が臆してしまふほど、遠く別れてしまひました (略) 二十二年の秋に上京して今ゐるサナへはひつたきり、閉された生活の中で明け暮れするやうになり、すつかりお便りも出来なくなりました その間いつも心の底に留めてゐながら、病気が悪ければ悪いで、よければまたよいで、手紙を書くだけの根気もなかったこと、お詫びのしやうもないことながらお察しください

療養所のことを「サナ」と言っているね。このあと堀の体を心配する見舞いの文章に続いて、「思へば僕がこのサナで暮すやうになつてからでも、既にいろいろのことがあり、僕は僕なりに苦しみを通り、危い瀬戸際をも経験しました」と苦しかった日々を伝えている。それでも前年から少しづつ、横になりながら短編を書いたこと、とにかく何かを書けるようになったことで満足したこと、そして、書きかけだった「風土」に秋の末からとりかかったことが報告される。

数日前にその第二部第三部と全部を書きあげて今ほっとしてゐるところです
僕が堀さんに初めてお会ひしたのが十六年の夏、「風土」を書き始めたのがやはりその夏ですから、数へて丁度十年になります その間何度も書けなくなり、筆を投げ、一時は全然あきらめてゐた作品だけに完成してみるとこの上なくいとしく思はれます
(略)誰よりも堀さんに見ていただきたいと思ひつつ書いた作品ですから、完成を眞先に御報告したくなりました ただそれを簡単にお見せ出来ないのが残念です
(堀辰雄宛書簡 昭和26年7月15日)


 B 10年がかりの完成だもの、すごく嬉しかったよね。それをすぐ師匠に伝えたかったんだね。なんだか、じーんとしちゃったよ。でも、すぐには本にならないってこと?

O なにしろ原稿用紙700枚を超える大作だ。よく書いたもんだキュイ。結局、このボリュームの大きさと、当時の福永の知名度の問題があって、出版社は、即刊行、という判断をしなかったんだなぁ。

B そうなのかぁ。書いた小説が本になるのって、簡単じゃないんだな。だけど、療養しながら、それだけの長い小説をよく書き上げたね。福永って、すごいな。

O そうは言っても療養中の身だから、たくさん執筆することは難しくて、その当時に書いた作品は多くない。
福永自身も当時の執筆状況について振り返って書いているものがあるので紹介しよう。ちょっと長くなるけど、しっかり聞くんだよ。

私は清瀬村の東京療養所に前後七年間も逼塞していたが、その間に「風土」を別にすると、殆ど仕事らしい仕事をすることが出来なかった。(略)
それは健康状態が執筆を許さなかったことも勿論あるが、また物を書くだけの精神的な気力が欠けていたせいでもある。気力さえあれば、例えば同じ病棟のすぐ近くの部屋に石田波郷さんが寝ていたが、波郷さんは「惜命」のような気力充実した作品を次々に産み出し、私はそれを羨望の眼で見詰めていたものだ。
(「序」『福永武彦全集 第三巻 小説 3 』)

B え、7年もいたの? 前後7年間??

O 東京療養所に入所したのが昭和22年の10月、翌昭和23年から27年は5年まるまる療養所にいて、退院したのが昭和28年の3月だから、入院の年と退院の年を「前後」1年ずつカウントすると、1+5+1で7年という計算かな。足掛け7年、実質5年半、か。

B ずいぶん長い間、東京療養所にいたんだね。ねえ、ひっそく、って言った?

O よく聞き取れたね。逼塞というのはだね、広辞苑によると「姿を隠してこもること。また、落ちぶれてかくれ住むこと」という意味がある。福永にしてみれば、同年代の仲間たちがどんどん活躍するなかで、自分はその世界を離れて郊外の療養所に臥せっているということを、自嘲して表現しているんだろうね。

B なるほどね。でもさ、具合が悪くて入所しているんだから、そりゃ執筆できないのは当然だよね。でも、悔しかったのかなぁ。で、この石田波郷(いしだ はきょう)さんっていうのは?

O 波郷は有名な俳人だ。

B はいじん?

O 俳句を詠む人、だ。長くなったからこの辺でいったん休憩して、続きは次回に話そう。

ブンガくんイラスト

木の葉のライン

(書影)
福永武彦『風土』新潮社 昭和27年7月(初版)
※現在 版元品切れ、電子版配信中です

(引用)
福永武彦「病者の心」『保健同人』昭和27年7月号 保健同人社
福永武彦 堀辰雄宛書簡 昭和26年7月15日(堀辰雄文学記念館所蔵)
福永武彦「序」『福永武彦全集 第三巻 小説 3 』新潮社 昭和62年10月
 

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