きよせ結核療養文学ガイド ブンガくんと文学散歩<福永武彦 4. 「草の花」>

ページ番号1009250  更新日 2024年2月2日

印刷大きな文字で印刷

「ブンガくんと文学散歩」バナー画像

木のはのライン

福永武彦 4. 「草の花」

B ブンガくん O 樹の上の声(オナガ)

福永武彦「草の花」新潮文庫版 書影

O いよいよ、福永武彦「草の花」の話だよ、キュイ。この作品は、昭和29年に新潮社から刊行されて、早くも31年には新潮文庫の仲間入り。今に至るまで長く愛されて、福永の代表作となっている。

B 療養時代を描いた小説なんだよね?

O 冒頭、K村にある療養所の寿康館(じゅこうかん)裏にぽつんと立つ百日紅(さるすべり)の木が印象的に登場するんだ。

B K村って、もしや?

O そう、まさしく清瀬村。福永が入院していたころ、清瀬は村だった。寿康館というのは、東京療養所にあった講堂の名前と同じ。

B きたーーーっ! わくわくするよ。友達に教えなきゃ。

O 福永自身は、東京療養所に昭和22年10月入所、28年3月退所。「草の花」は退所後に書き上げた作品だが、療養所のその当時の経験を、ひとり個人のものというだけでなく、そこで過ごした「すべての仲間たちの経験として、書きとめておく義務を感じていた」と言っている。

B そっかぁ。すっごく思いがこもってそうだね。

O 小説「草の花」は、「冬」「第一の手帳」「第二の手帳」「春」の4部構成だ。冒頭の百日紅の木に始まる「冬」には、療養所の様子がつぶさに記されているんだよ。
「私」の部屋に新しく入ってきた剛毅な汐見茂思(しおみ しげし)、医学生の良ちゃん、機械屋の角さん、古道具屋の小父さん(おじさん)、謄写版の原紙を切る無口な青年と「私」、この6人が同室のメンバーだ。

B いろんな人が登場するんだね。

O この6人のやりとりが、病室の日常を映していて、情景が見えるようだよ。福永自身、のちにこんなふうに書き記しているんだ。

療養所に於ける苦しい思いを(原因はひとによって異り、病状は人によって異ったとしても)共通のものとして汐見茂思とその同室の患者たちの上に描きたかった。「冬」と「春」の二つの章は単に額縁としてあるだけではなく、私にとって不可欠のものになっていた。
(「『草の花』遠望」)

福永は東京療養所にいるうちに、「草の花」の原型、「慰霊歌」という作品を書いているんだ。昭和24年の12月から翌25年の5月にかけてのことなんだが、前回紹介した『福永武彦新生日記』の掲載日記がちょうど途切れている期間にあたるね。

B 病室で書いたの?

O 寒い冬、療養所の固いベッドの上で横になったまま原稿を書いたんだそうだ。左手で原稿用紙を持って枕の横のところで支えて、右手に持った万年筆で少しずつ書き進めた。そういう不自然な恰好をとったせいで背中に水がたまって、お医者さんに厳しく注意される。

B なんだか、思いつめて、根詰めて書いている感じだね。

O 果たして「慰霊歌」は書き上げたものの、病状が悪化して、そのあと当分、原稿を書くどころじゃなくなってしまう。ただ、「慰霊歌」を書き進めるうち、小説の中で汐見が死に向かおうとするのと対照的に、福永自身は生きる方に向かったのだというね。

オナガのイラスト

B 甦ったんだね。よかった。

O 同じ年の秋ごろからようやく健康も回復して、未完成だった「風土」にとりかかるんだ。

B すごいねぇ。ほんとうに書きたかったんだね。

O 「慰霊歌」の出来上がりには満足していなかった福永だけど、「風土」を書き上げると、「慰霊歌」をどう書き直せばいいか、すっかりわかっていたという。時間を経たことで、汐見を他人として見ることができたし、退所すると、療養所の生活を客観的に見る余裕が生まれたんだね。

B ということは、汐見茂思っていう登場人物は、福永そのものだった、ってこと?

O 福永の小説はおよそフィクションなんだが、ただひとつ「草の花」だけは、モデルとなるものがあった、と本人も認めている。

B そうなのかぁ。でも、他人として見られないまま自分を小説のなかに登場させて物語を書くのは、辛そうだよね。

O ギュイ。でも、現実をそのまま描いたわけじゃないんだ。小説のなかで汐見は死んでしまうけど、福永は晴れて退所しているだろう?

B 福永も、東京療養所で手術を受けたんでしょ?

O 彼が受けたのは、胸郭成形術(きょうかくせいけいじゅつ)という手術だ。

B え? せいけい?

O 結核菌が肺に入り込んで悪さをすると、肺の一部が崩れて空洞ができるんだ。空洞の中は湿っていて温かいから、中の結核菌はどんどん増えてまた次の悪さをしてしまう。だから、そうなる前に空洞をつぶして結核菌を封じ込めてしまいたい。そのために肋骨を何本か切ることで肺を委縮させて中の空洞を押しつぶそうとする。そういう手術が行われていたんだよ。胸郭成形術というんだが、これを「成形」と呼んでいたんだ。美容整形じゃないよ。

B そっか、びっくりしたぁ。しっかし、肋骨を何本も切っちゃうなんて、勇気いるね。

O 福永が東京療養所にいた昭和20年代半ばといえば、有効な薬もまだ自由には使えなかったし、手術は「成形」の時代だ。小説の中で「肺摘(はいてき)」と言っているのは、肺の摘出、病巣のある部分を切り取る肺切除術のことだけど、これが安全に行われるようになるのは、もう少しあとのことなんだよ。

B せいけい、か、はいてき、か、それが問題だ。

O その、まだ危ないと思われていた「はいてき」、肺切除の手術を、汐見は強く望んで受けると言ったわけだ。「私」も同室の仲間も心配して反対したんだが、汐見の意志は固い。
手術に臨む直前に、汐見は「私」に2冊の「ノオト」を託すんだ。「但し、僕が死んだら、だよ」って。

B 汐見は、手術で死ぬかもしれないっておもってたのかな。

O ギュイ。そうかもしれない。長時間に及ぶ手術で、問題の肺葉は摘出できたものの、最終盤、あとは縫合というところで急に血圧が下がってしまって、結局、汐見は手術中に死亡してしまうんだ。「私」は、呆然とする。なにしろ、長い長い手術の成り行きを心配して、雪の降る中、手術室前の寒い廊下でひとり夜中まで待っていたんだからね。

B 「私」は、汐見のこと、だいじに思っていたんだね。

O 翌日、霊安室で病室の仲間と通夜の支度を整える。いったん病棟に戻った「私」は、ふと汐見の言葉を思い出して、手術前に彼が個室の枕の下に残していった2冊のノオトを手に取るんだ。そして、ひとり霊安室に戻って凍りつくような畳の上で読みふける、というところで「冬」が終わる。このノオトから「第一の手帳」「第二の手帳」が生まれる。藤木忍と妹の千枝子をめぐる回想の章だ。小説は「春」と題する最終章で締めくくられる。
小説「草の花」は、じ~っくり、ゆ~っくり読んでもらうことにして、物語の舞台について少し説明しておこう。

B おっ、来た来た! 清瀬の東京療養所、だね?

O 「草の花」に登場する結核療養所は、東京療養所がモデルだと言っていいだろう。福永がいた当時の病棟は、昭和14年にできた傷痍軍人東京療養所時代からの建物で、木造平屋建て、南北2棟ずつペアになった病棟が「一寮」から四を除いて「九寮」まであった。ちょっと、この図を見てごらん。

東京療養所配置図

B うっわ、すご。昭和18年に描かれたの?

O そう。傷痍軍人東京療養所時代に描かれた病棟配置図。終戦の年の12月に国立東京療養所になるんだが、建物などはそのまま使われたから、福永が描いた療養所の姿の参考になるね。
どこにあったかというと、現在の東京病院の場所。東京病院の敷地も広いけど、今、日本社会事業大学があるところも東京療養所の敷地の一部だったんだからね、そうとうな広さだ。

B ずいぶん大きな療養所だったんだね。この、分度器みたいな形をしているのは?

O 図の上の方、扇型に配置されているのは、回復期を過ごす「外気舎」。外気小舎(がいきごや)とも言ったね。このうちの1棟が「外気舎記念館」として、東京病院の敷地内に残されているのを知ってる?結核療養の歴史を語る清瀬市指定有形文化財だ。

B 聞いたこと、あるよ。もともとは、こんなにたくさんあったんだね。

O 回復期を迎えて病棟から外気舎に移ると、作業療法といって、園芸や謄写版印刷とか、少し体をうごかして社会復帰に向けての体ならしをしたんだ。外気での作業療法の日々を無事乗り切ったら、療友に見送られて正門から晴れやかに退所することができたんだよ。
当時の正門は、図のいちばん下。ここから続くケヤキ並木は、今も残っているね。病棟のようすはすっかり変わったけど、ケヤキは、思えばずっと、いろんな情景を見守ってきたんだなぁ。キュイ~
「草の花」に描かれている時代には、所内で亡くなる人も少なくなかった。汐見の遺体も安置された霊安室は、図の左端に位置していて、亡骸は霊安室に続く裏門から療養所を出た。「私」が憑かれていたのは、この裏門なんだ。

B そうだ、百日紅が裏庭にあったっていう寿康館は、どこ?

O 寿康館は、図の右上、病棟の南側、分度器型に並んだ外気舎群の脇にあった。映画会や句会も行われた講堂だ。今はもうない。

B ねえ、最初に出てきた百日紅の木は、残ってるの?

O 百日紅のあった場所は、今は、日本社会事業大学のキャンパスの中だ。グラウンドの脇あたり。残念ながら木は枯れてしまったんだけど、大切な記念の場所として位置を特定する杭が打たれて、いきさつを語る説明板が立てられているんだよ。

B それは、すごいね。

O 大学が移転してくるとき、この木をぜひ残したいと願った病院の先生がいたんだ。「草の花」に描かれた結核患者の苦しみや心理描写のなかには、例えばがんの終末期の患者さんの想いと相通じるものが多い。死を心に想いながらの日々の苦しみは、今も昔も変わらない。その証しとして、一本の百日紅を記念樹として残そう、と。大学側も快諾。立て札もたてられた。昭和63年12月のことだ。ちなみに、そこに名前がある芳賀敏彦先生は、当時東京病院の院長。福永さんが東京療養所で「風土」を書きあげたころ、駆け出しの若いお医者さんだった人だよ。

B 百日紅の木には、いろんな人の記憶や想いがつながってるんだね。そうか、「草の花」に書かれてるのは、もう終わっちゃった昔のできごと、っていうんじゃなくて、今にも、きっと未来にも通じることなんだね! 福永さん、凄すぎ。その舞台が清瀬なんでしょ? うっわぁ~ ぞくぞくしてきちゃった。

O 記念の立て札には、後日談がある。昭和のおわりに立てられた木の立て札は、時と自然の力で朽ちてしまったんだけど、令和3年3月、日本社会事業大学が新しい看板を立てたんだよ。これまでの経緯を伝える文面で、百日紅の木があった所の脇に、ね。

B だいじにされているんだね。「草の花」がんばって読んでみるよ、ぼく。

ブンガくんイラスト

木の葉のライン

(書影)
福永武彦『草の花』 新潮文庫刊

(図版)
東京療養所配置図 国立病院機構東京病院 所蔵

(引用)
福永武彦 「『草の花』遠望」『福永武彦全集 第二巻 小説 2 』 新潮社 昭和62年5月

 

葉っぱのイラスト

より良いウェブサイトにするために、ページのご感想をお聞かせください。

このページに問題点はありましたか?(複数回答可)
このページの情報は役に立ちましたか?
このページは見つけやすかったですか?

このページに関するお問い合わせ

市史編さん室
〒204-0013
東京都清瀬市上清戸2-6-41 郷土博物館内
電話番号(直通):042-493-5811
ファクス番号:042-493-8808
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。