きよせ結核療養文学ガイド ブンガくんと文学散歩 <吉行淳之介 1. 青春の日々>

ページ番号1009683  更新日 2022年5月30日

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木のはのライン

B ブンガくん O 樹の上の声(オナガ)

吉行淳之介 1. 青春の日々

ブンガくんイラスト

B 東京療養所にいた小説家、福永武彦の話を最初に聞いたけど、清瀬で療養した人の中に、ほかに有名な小説家はいなかったの?

O 有名な作家といえば、やはり清瀬病院にいた吉行淳之介(よしゆき じゅんのすけ)になるかな。ブンガくんは、知っている?

B う~ん…聞いたことがあるような、ないような…

O 昭和29年(1954)に「驟雨(しゅうう)」という小説で芥川賞を受賞した作家だ。

B 芥川賞作家なの? すすっすごいね!あこがれちゃうなぁ。

O ブンガくんは芥川賞に弱いなぁ(笑) 吉行には「暗室」や「砂の上の植物群」などの代表作があるんだが、彼の名前が広く知られるようになったのは、NHKの朝の連続テレビ小説「あぐり」の影響が大きかったかな。

母あぐり 父エイスケ

B 朝ドラの「あぐり」?

O 平成9年にNHKで放送された、吉行淳之介のお母さんの半生を描いたドラマなんだ。平均視聴率は28.4%、最高視聴率31.5%だったことからも分かるように、日本中の人たちが観ていたんだよ。

B すごい数字だね!そんなに人気のドラマだったの? しかも芥川賞作家の淳之介じゃなくて、そのお母さんのドラマ?

O 吉行あぐりは、洋髪美容師の草分けなんだ。戦時中の苦難を越えて、98歳まで現役の美容師として活躍した人だ。彼女の激動の半生がドラマ化されて人気を博したんだよ。淳之介は、そのあぐりと、詩人で小説家の吉行エイスケの長男だ。

B 98歳まで現役美容師だったなんて、驚いた! 今、サラッと言ったけど、淳之介のお父さんも小説家だったの? 驚きの連続で、どこに突っ込んだらいいか分かんなくなっちゃうよ。

O エイスケは、既成の秩序や常識に対する否定、攻撃、破壊といった考えを大きな特徴とするダダイズムという芸術思想の小説家だった。けれども、早くに筆を折り、34歳の若さで亡くなったんだ。

B え、ポキンと筆を折っちゃうなんて、腕力あるねえ。ってか、小説の原稿を筆で書いてたの?

O いやいやいや、そうじゃなくて。もう書くことをしない、という意味で「筆を折る」というんだ。エイスケさんの話を始めると長くなっちゃうから今日はしないけど、それはそれは破天荒な人だったんだよ。

B ふうぅん。でも、そうしたお父さんのDNAって、淳之介が小説家になったことに影響あったのかもね。両親ともに有名人だってことは、わかった。で、かんじんの淳之介について、知りたいな~。教えてよ。

淳之介 病気と文学

O 淳之介は、大正13年(1924)に岡山市で生まれたんだ。彼が生まれて間もなく、父エイスケは作家仲間と活動するためにひとりで上京して、ほとんど岡山に帰って来なくなってしまう。エイスケを連れ戻したい吉行家の願いもあって、母あぐりも無理やり上京させられたんだ。それで、淳之介は2歳まで祖父母に育てられたんだよ。

B 生後間もなく両親と離れ離れだなんて… お父さんはむちゃくちゃだね。

O 淳之介は、2歳の時にようやく両親と東京で暮らすようになって、番町小学校に入学、麻布中学校へと進学するんだが、昭和15年、16歳のとき腸チフスにかかって5か月近く入院、学校も休学せざるを得なかったんだ。

B え、腸チフスって、そんなにたいへんな病気なの?

O チフス菌による感染症で、高い熱が続くんだ。重症になると生命を脅かすこともある病気なんだよ。

B そりゃ、たいへんだ…

O 病気そのものが辛いのに、なんとその入院中に父エイスケが狭心症で急死してしまうんだ。でも、淳之介の病状が重かったからショックが大きすぎることを心配してすぐには知らされず、ことの次第を知ったのは数か月後だったという。

B なんてこった。お父さんの死に目に会えなくて気の毒だったね…

O それはそうなのだけど、普段から破天荒な父エイスケは家にはほとんどいなかったから、一般的な感覚とは少し違ったかもしれないね。自身が生死をさまよう熱病と、破天荒な父の死に、同時に遭遇しての休学期間は、淳之介が文学と出会うキッカケとなったみたいなんだ。

B 病気って、やっぱり転機になるんだね~

O 母あぐりが与えてくれた、石坂洋次郎の「美しい暦」や、阿部知二の「朝の霧」などを皮切りに、たくさんの小説を読むようになったんだ。小説のほかにも、詩人 萩原朔太郎の作品を特に愛読したようだよ。

B 萩原朔太郎かぁ。福永武彦も愛読してたんでしょ? 吉行淳之介も好きだったんだね。

O 朔太郎の作品は、特に悩み多き思春期・青年期に響くんだよ。よかったらブンガくんも読んでみれば?

B う、うん……覚えておくよ。

オナガのイラスト

O 復学した翌年、昭和17年に淳之介は麻布中学を無事卒業して、旧制静岡高校、現在の静岡大学の文科丙類(文系フランス語クラス)に進学する。ところが、第二次世界大戦の戦局深まるなか、高校生活も軍事一色に染まっていく。それを嫌って2年生に進級したときに「心臓脚気(かっけ)」と偽って1年間休学するんだ。このころからさらに文学に関心を持つようになって、小説を書いてみていたようだよ。

B へえぇ、一度目は腸チフスで仕方なく休学だったけど、二度目は自ら望んで仮病で休学かぁ。いずれにしても、そうした空白の時間が淳之介を文学の世界に連れて行ったんだね。

O ただ、なにしろ戦時中のことだからね、復学した昭和19年には、徴兵検査を受けなくてはならなかった。

B 吉行淳之介と徴兵検査って、なんかピンとこないな。病弱なのに。

O ピンと来ても来なくても、みんな受けなきゃいけなかったんだよ。淳之介は検査で甲種合格して20歳で召集されたんだが、入営3日目に気管支喘息と診断されて、4日目に帰郷することになる。翌昭和20年4月、東京帝国大学に入学するんだけれども、戦時下にあって学問どころじゃなく、5月25日には空襲で自宅を失っている。この年も徴兵検査を受けて再び甲種合格となったんだけど、召集前に終戦を迎えて淳之介は出征せずじまいとなる。

B ふう。どうなることかと思ったよ。戦争が終わる年の春、大学生になったんだね。東京帝国大学?

O そう。今の東大だよ。

B わーお。みんな頭が良いんだねえ。淳之介は高校のときフランス語クラスだったんでしょ。ってことは、大学でも福永さんみたいにフランス文学を学んだの?

O いや、淳之介は英文科だったんだ。

小説家の出発点

B さてさて、吉行淳之介のキャンパスライフやいかに。

O 淳之介は大学で同人雑誌『葦(あし)』を創刊して、詩や小説を発表し始めたんだ。『葦』は第3号で終わってしまうんだけど、その後、淳之介は、いいだももや中村稔、日高晋たちが所属する『世代』や、中井英夫たちの第14次『新思潮』の同人として活動するんだよ。

B いろんな同人誌があったんだね。自分で創刊しちゃうって、すごいよね。「いいだもも」っていうのも作家の名前?

O いいだは、のちに評論家として活躍した人だ。彼も清瀬で結核療養したようなんだが、それはまた機会があれば話そうかな。

B へえ。「清瀬と結核」でいろんな人がつながってるんだね。評論家というとカタ~いイメージだけど、ひらがなの名前っていうのが印象的だね。

O そうだね。とにかく、淳之介にとって、この時代が小説家としての出発点と言っていいだろう。

B なるほど。大学時代にすでに作品を発表していたんだね。福永武彦と同じだ。若き作家!って感じで注目されたとか?

O いやいや、そんなにすぐ人気作家になれるほど甘くはないよ。大学時代の淳之介は、授業にはあまり出ないで編集のアルバイトをしていて、アルバイト先の社長のすすめで昭和22年の秋、大学を中退して編集者になるんだ。編集者時代は忙しかったようだけど、毎年1作は『世代』や『新思潮』に小説を載せているんだ。昭和26年(1954)には、「原色の街」が『世代』に掲載されて、芥川賞候補にあがる。

B 大学をやめちゃったのは、もったいないけど、編集者になっても小説を書き続けてたんだね。芥川賞候補にあがるなんて、やっぱり才能があったんだね。

左肺尖部を示すブンガくんイラスト

O その後も、昭和27年7月『三田文学』に発表した「谷間」も芥川賞候補になって、いよいよ文壇でも注目される新進作家になるんだが、この年の11月に左肺尖部に空洞が見つかり、結核と診断されて休職するんだ。このとき淳之介28歳。

B ああ、吉行も結核かあ!

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