きよせ結核療養文学ガイド ブンガくんと文学散歩 <吉行淳之介 2. 清瀬病院入院>

ページ番号1009685  更新日 2022年1月31日

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木のはのライン

吉行淳之介 2. 清瀬病院入院

B ブンガくん O 樹の上の声(オナガ)

オナガのイラスト

B 昭和26年の「原色の街」や、27年の「谷間」が芥川賞候補になって注目されて、よし、これから、ってときに結核とわかるなんて。吉行はショックだっただろうね。

O 続く28年1月には、「ある脱出」という小説がまたまた芥川賞候補にあがって、文壇でもさらに評価を高めるんだが、一方で結核は悪化。淳之介は勤めを辞めて千葉県佐原の病院で療養生活を始めることになる。

B あれ? 清瀬じゃないんだ。

O はじめは、ね。親しい作家仲間たちがそれぞれに、入院するならあそこがいい、ここがいい、と言ってきた。自分のいるところに近い病院を推薦してくるあたり、吉行が愛されてるのが伝わるんだけどね。そんな中に佐原の病院があった。病院とはいっても療養宿のようなところで、治療を受けるという様相ではなかったらしい。ひとり、ただ安静にしているだけで、看護師もほとんど顔を出さなかったとか。脊椎(せきつい)カリエスを患っている安岡章太郎(やすおか しょうたろう)が見舞いに来て病室に泊まっていった夜は、彼のコルセットがきしむ音が一晩中していた、ムソルグスキーの「禿山(はげやま)の一夜」のようだった、なんてなことを書き残しているよ。

B 「禿山の一夜」! 聴いたことあるよ。吉行は、おもしろいこと言うね。ところで、カリエスって、なぁに?

O 脊椎の結核、だよ。結核性脊椎炎。患部を守るためにコルセットをつけていたんだね。時代は少しさかのぼるけど、俳句の正岡子規(まさおか しき)もカリエスで自宅療養した様子を「病床六尺」に書き残しているんだ。

B へええ、脊椎の結核っていうのもあるのかぁ。

O 結核菌が悪さをするのは肺の中だけじゃないんだ。たとえば喉なら咽頭結核、消化管を伝って菌が下っていくと腸結核をおこした。結核菌は血液に入り込んで運ばれると腎臓や骨や関節や脳や…つまり体中の臓器で悪さをした。全身に菌がまわると、肺全体に粟(あわ)粒のような病変を起こす粟粒(ぞくりゅう)結核というやっかいな結核をおこした。粟粒結核は、治すのがむつかしくてね。

B そんなにいろんな結核があるなんて、知らなかった。吉行の結核は?

O 肺に空洞ができていたってことは、肺結核だったわけだ。ちなみに脊椎カリエスだった安岡章太郎は、吉行の仲のいい友達で、彼も小説を書いている。芥川賞作家だ。

B え、友達も芥川賞作家なの?! すごいな~
しっかしまぁ、なんというか、小説家として活躍し始めたところで結核かぁ…。 人生は思うようにいかないねぇ。

O 千葉で療養を始めたのは肺切除の手術が新しい結核の手術様式としてちょうど話題になり始めたころで、淳之介なりに情報収集しながら、その手術を受ける時期かどうか考えていたところだったらしい。

B へえぇ、冷静だな。

 

肺に空洞を持っているのは…

オナガのイラスト

O 結核で体調が悪化して勤めを辞めた淳之介はそのころ、友人の小説家、庄野潤三(しょうの じゅんぞう)の薦めでラジオ放送の台本を書くなどして生計を立てていたんだ。そんな折、遠縁にあたる清瀬病院の島村喜久治(しまむら きくじ)院長から「肺に空洞を持っているのは文化的ではない、はやく切り取りなさい」という趣旨の手紙が届き、そろそろかな、と思っていた淳之介は手術を受ける決心を固めて、国立療養所清瀬病院に入院するんだ。

B そっかぁ。結核になったことが、ある意味、作家業に専念する転機をもたらしたってことか。それにしても「肺に空洞をもっているのは文化的ではない」だなんて、面白いことをいう先生だね。

O 島村喜久治先生は、若くして清瀬病院の第2代院長に就き、東京療養所との統合後は東京病院の第2代院長となって長く清瀬で結核医療に携わった先生だ。終戦直後の混乱の中で、先生に厚い信頼を寄せる患者や職員たちに推されて清瀬病院の院長になり、病院を立て直していった経緯たるや、小説を凌ぐばかりの物語なんだよ。病院ニュースの巻頭言をはじめ、雑誌にもたくさん文章を寄せていて、それがまたいずれも名文で、日本エッセイストクラブ賞を受賞したこともある人なんだ。この先生については語ることがたくさんあるから、また回を改めなくちゃね。

B 話題豊富な人が多いところだねぇ、清瀬の病院街って。

O ははは、いかにも、いかにも~。さて、こうして淳之介の清瀬病院での日々が始まったわけだ。

B 吉行の手術って、ろっ骨を何本も取っちゃう「せいけい」(胸郭成形術)とは違う手術だったんでしょ?

O このブログで紹介した福永武彦、石田波郷が手術を受けたのは、ともに昭和23年で、そのころは結核の手術といえば胸郭成形術だった。福永が療養所を舞台に書いた小説「草の花」の中で、汐見茂思がいわば強引に受けた肺切除の手術は、まだ危険を伴うものとして描かれていたね。ところがその後、結核外科医療はググググンと進化する。20年代の終わり、淳之介が手術を受けたのは29年だけど、そのころには肺の患部、結核菌に侵されたところを部分的に切り取る手術が安定的に行われるようになっていたんだ。肺の区域切除だね。麻酔の技術も進化したし、術後の感染症対策のための抗生物質も使えるようになったからね。

B 吉行はそういう情報をちゃんと収集してたってことか。そうは言っても、入院しちゃうとしばらく小説家として表舞台には出られなかったんじゃないの?

O いや、実は、清瀬病院に入院して間もない昭和29年2月に『文學界』に発表した「驟雨(しゅうう)」という作品が評価されて、その年の7月、芥川賞を受賞するんだよ。

B えーーー! これは意外な展開だ。2月に雑誌に発表した作品ということは、入院してから仕上げたってこと?

O 昭和28年11月、国立療養所清瀬病院に入院した淳之介は、年明け1月の手術までの間に「治療」という短編と、以前から書いていた「驟雨」という小説を書き上げたんだ。

B 手術前に、すごいね! 早速、清瀬病院の話を書いたの?

O いや、さすがにまだだね。「治療」というタイトルだと、そうかな?って思うよね。でも、これは喘息(ぜんそく)の話。

B そっか。だって入院したばっかりだもんね。

 

国立療養所清瀬病院

B ところで、吉行淳之介が入院した清瀬病院っていうのは、福永武彦や石田波郷たちがいた東京療養所とは別のところだよね。清瀬で最初にできた結核の病院で、あった場所は今の中央公園とか、看護大学校とか、「リハ学」跡って呼ばれてる、あの一帯ぜーんぶ合わせた広いところ、だったよね。

O そう。昭和31年に撮影された航空写真があるから、ちょっと見てみよう。

昭和31年の病院街航空写真

B うっわ、魚の骨みたいにつながった建物があっちこっちにあるよ。これ、ぜんぶ病院や療養所なの?こんなにたくさんあったんじゃあ、訪ねていくとき、迷子になりそうだねぇ。

O ほんとだね。「清瀬の療養所」といえばわかるとばかり思いこんでやって来た見舞客もいたようだから、来てみてびっくり!こんなにたくさんあるなんて、会いたい人はいったいどこにいるのかしら、っていう話もあったとか。
ひとまず、清瀬病院と東京療養所がどこにあったか、書き入れてみた。吉行が入院していたのは、写真の上の方に写っている「国立療養所清瀬病院」。

B ほっほ~、線路に近いここだね。でっかいね~

O 吉行が入院していたころ、清瀬病院のすぐ隣には、都立清瀬小児療養所、その隣には日本鋼管の清瀬浴風院があった。清瀬小児療養所というのは、のちの清瀬小児病院。このころは結核の子どもたちのための療養所だったんだ。清瀬浴風院というのは、日本鋼管という会社の結核療養所。志木街道に沿っては、信愛病院、ベトレヘムの園。

B すごいね。みーんな、結核の関係?

O そう、当時はね。清瀬病院南側、写真でいうと下側の通りをはさんで、向かいには結核研究所。結核研究所の臨床部がのちのち複十字病院になる。それから、救世軍清心療養園、のちの救世軍清瀬病院があって、東京療養所があり、上宮教会清瀬療園、現在の清瀬リハビリテーション病院、という具合に、ずら~り並んでいたんだよ。竹丘病院は、当時は清瀬保養園という名前で現在地にあったし、今はなくなっちゃったけど、東京都の職員のための療養所もあったんだよ。長くなるからこのくらいにしておくけれど…

B すっごい数だね。それにそれに、結核の患者はずいぶん減ったのに、そのうちのいくつもの病院が今も病院街にあるって、それってさ、ほんとにすごいことなんじゃない?

O そうなんだよ、よく言ってくれた、ブンガくん! かつての結核療養所は、今は総合病院になり、老人医療やリハビリテーションにも対応して、昔も今も時代のニーズに応えているってことなんだ。時代の流れで結核病床を閉じた病院も、もちろんあるけど、病院街の3つの病院には今も相当数の結核病床が確保されているんだ。東京都内の総結核病床の半数を超える数が清瀬の病院街にあるんだよ。

B すごーい。結核と向き合ってきた清瀬の歴史が、今につながってるんだね。

O そういうことだね。そもそも、日本中探しても、こんなに医療施設がひとつの地域に固まってあるところなんて、他にないんじゃないかな。ルーツの結核療養所群が、駅からそう遠くない距離にこんなにたくさんあったところというのも、ひょっとすると、世界中探しても、ないかも。
あ、読者のみなさん、他にもあるよ、ここ!っていうのをもしご存じなら、ぜ~~ひとも教えてほしい、ギュイ~。

B あ、久しぶりにギュイ~が出たね。

O 思わず力が入ってしまった、キュイ。さて、話戻って、吉行が入院した清瀬病院。昭和6年(1931)に病院ができたときは、「東京府立清瀬病院」という名前だった。清瀬の病院街で最初にできた病院だ。
結核というのは結核菌の空気感染で広まる病気だから、結核療養所には患者の治療と同時に感染拡大防止のために患者を隔離する目的もあったんだ。患者が狭い部屋で家族や職場の人たちと一緒にいたのでは、周囲のみんなが結核になってしまうからね。

B なるほど。

O 結核自体は、エジプトのミイラに病気の跡が見つかるくらい古くからあった病気なんだけど、都市化や工業化で人が密集して過ごす環境ができてからワッと広まった近代病でもある。
もっとも、結核菌を吸い込んだからって、すぐに肺に空洞ができるわけじゃない。その人の免疫力が強ければ結核菌はおとなしくしているんだ。悪さをし始めても、はじめは自覚しにくいし、咳が出ても結核だなんて思いたくないからスルーしがち。でも、熱が続いて咳がひどくなって痰に血が混じっているのを見たりして、まずいんじゃないかと思ったときには結核はすでにかなり進んでしまっている。そういう病気なんだよ。

B そりゃまた、めんどうだね。

O 結核で体を悪くすると仕事ができなくなって困窮する。食べるものにも困る経済状況だと十分な栄養もとれず体は弱る一方だから結核菌にやられ放題。食べ物に事欠く状況じゃ、治したくても医療費なんて、とてもじゃないが払えない。そういう患者の医療費は社会が負担しても療養所に入れて隔離、治療すべし。というわけで公立の結核療養所が建てられた。府立清瀬病院も、はじめは「療養ノ途ナキ者」を収容するための施療病院だったんだ。

B たいへんな時代だったんだ~

O その後、結核に真剣に向き合う医療関係者たちによって、結核の治療なら清瀬!と言われるほどの高い医療水準が打ち立てられるんだ。清瀬には結核研究所もあったし、千床近い大きな病院も複数あって、それはまさしく、清瀬病院と東京療養所という2つの国立療養所なんだけど、優秀な先生たちが一生懸命、治療にあたっていたからね。
はじめは施療病院だった清瀬病院だけど、その後は、外来患者も受け付けるようになり、医療費を払っての入院患者も受け入れて、広く、多くの患者の治療にあたったんだ。淳之介の入院は、そうなってからのことだ。

B ふうむ、結核療養所にも歴史あり、か。いろんな職業の人が入院していたんだろうけど、吉行淳之介は小説家だし、けっこう皆から注目されてたんじゃないの?

O そう思うかい? 淳之介の清瀬病院ライフについては、いろいろなところに書き残されているものがあるから、回を改めてじっくり紹介していこう。乞うご期待!

ブンガくんイラスト

木の葉のライン

(航空写真)
国土地理院ウェブサイト USA-M324-131 (1956年撮影) を加工
 

葉っぱのイラスト

葉っぱのイラスト

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