きよせ結核療養文学ガイド ブンガくんと文学散歩 <藤井重夫 2. 吉行淳之介との交流>

ページ番号1013076  更新日 2023年11月17日

印刷大きな文字で印刷

「ブンガくんと文学散歩」バナー画像

木のはのライン

B ブンガくん O 樹の上の声(オナガ)

藤井重夫 2. 吉行淳之介との交流

オナガのイラスト

B 清瀬にはたくさんの結核療養所があったって聞いたけど、新聞社の療養所も、あったの?

O 藤井の言う「朝日のサナトリウム」というのは、結核予防会結核研究所附属療養所にあった朝日新聞社の病棟のことだ。ここには、朝日新聞社だけじゃなくて、いろんな企業の委託病棟があったんだ。

B へえぇ、結核療養所にいろんな会社が病棟を持ってるなんて、すごいね。会社にとっても結核はマジたいへんな病気だったんだね。

O 国民病とも亡国病とも呼ばれた時代があったからね。病棟の配置図があるから、見てみよう。「結核研究所附属病院の病棟配置図」となっているのは昭和52年に名前が変わったからだ。病棟配置は変わらないまま。さあ、ブンガくん、藤井の病棟は見つかりそうかい?

結核研究所附属療養所病棟配置図

B あった、あった、朝日新聞社って書いてある病棟がある。昭和27年開設、6病棟だって。それから日本銀行、東京電力、日本軽金属、東京国税局……日本国有鉄道? 富士銀行?

O 日本国有鉄道は、国鉄と呼ばれていた。分割民営化されて、いま、JR。 富士銀行は、ほかの銀行と一緒になって、みずほ銀行になっている。結核研究所附属療養所には、名だたる企業が病棟を持っていたんだよ。

B 委託病棟っていうのは?

O 病棟はそれぞれの会社が建てて、結核になった従業員や関係者を入院させた。医療の部分は、結核研究所のお医者さんや看護師さんが受け持った。そういう形式の療養所だったんだ。会社ごとに病棟のデザインもそれぞれだったけど、病棟はぜんぶ、ながい長い廊下でつながっていたんだよ。

B 病棟ごとに雰囲気が違ってたってこと? おもしろいね。

O たとえば、日本軽金属の病棟は、アルミがふんだんに使われていた。なにしろ、日本有数のアルミの会社だからね。

朝日病棟外観
 <写真:朝日新聞社委託病棟の外観>

B へえ~。朝日の病棟は、どんなだったの? 窓枠が新聞紙でできてた、なんてことはないよね。

O こら、こら。朝日病棟の担当だったお医者さんの話によると、長い連絡廊下から病棟に入ったところに病棟管理の人がいて、その先に病室が並んでいた。8人部屋が5つばかり。病棟のまん中にナースステーション、食堂、ほかに2人部屋と個室が少々。病棟全体で50床という規模だった。

B 療養所は、どのあたりにあったの?

O いま複十字病院がある辺りの一帯だけど、さっきの図のように木造の病棟がずらりと並んでいたころは、複十字病院や結核研究所のあるところから、奥は現在の都立清瀬高校のところまで、すっかりぜんぶ結核研究所と附属療養所の敷地だったんだそうだ。

B うひゃあ、広いね~

松山緑地保全地域の写真

O 清瀬高校と複十字病院のあいだに、緑地保全地域があるの、わかるかな。

B うん、わかるよ。「清瀬松山緑地保全地域」っていうんだよね。高い木がたくさんあって、遊歩道を行くとBCGを作ってるところの脇に抜けるんだ。鳥の声がきこえて、ぼく、あの緑地、大好きだよ。そうかぁ、藤井が入院していたころは、療養所の敷地だったんだね。もしかしたら、散歩のとき、藤井も同じ木を見上げたかもね。

O そうかもしれないね。ところで、藤井がいた結核研究所附属療養所と、吉行が入院していた国立療養所清瀬病院は、道路をはさんで向かい合った位置にあった。藤井重夫と吉行淳之介。このふたりの関わりについて、ちょっとしたエピソードがあるんだよ。

B 知りたい、知りたい。どんなお話?

O 藤井の作品が、昭和24年12月の『モダン日本』に載ったときのことだ。『モダン日本』は、今でいう週刊誌型で80ページの、文字通りモダンなつくりの雑誌だった。

 その80ページ目に「編集部だより」とあって、☆本号においては二百枚の巨篇「密林の外人部隊」お贈りします。現実の裏付けをもったスケールの大きいロマン。これは今後の読物のあり方を指示するものと思います。(Y)
 ……この(Y)くんが当時、白面の青年だった吉行淳之介だったのである。
(「骨肉」)

オナガのイラスト

B わぁお! 吉行が編集者だったころ、接点があったってこと?

O そうなんだ。だから、病棟をまわってくる本屋から、吉行がすぐ向かいの清瀬病院に入院しているときいて、藤井は早速、ベッドの端の床頭台で吉行宛の手紙を走り書きする。

『密林の外人部隊』のアレから早や四年余になります。お元気ですか、とよびかけたいところですが、おなじ病気で奇しくも道一つへだてたお向かい同士になりましたね。近く、お得意の脱柵をはかって、お見舞いにゆきます。どうぞおだいじに。
(「骨肉」)

B へえぇ~、本屋さんが郵便屋さんみたいに手紙を届けてくれるんだ。おもしろ~い。それで、返事はあったの?

O 手紙を託してから1週間、2週間と過ぎたころ、返事が来た。手術の日が決まったという。

B それで、それで?

O 吉行が手術を受ける前の日の、午後の安静時間がおわった3時過ぎ、ちぎられた有刺鉄線の穴をくぐって藤井は吉行のもとを訪ねたんだ。見舞いの缶詰を持って、ね。

B それが、だっさく?

O そうね。療養所では病気の程度によって安静度が決められていて、行動範囲も安静度に従ったものでなくてはならないんだ。勝手に出かけていいわけじゃない。それなのに、療養所の外まで無断で出かけちゃうのを脱柵といったんだ。もっとも、許可をもらっていたとしても、門衛がいて受付がある表門を通るのがめんどうで、違うところから入る脱柵というのもあったがね。

B 近道しちゃうってこと?

O まあ、そんなところかな。療養期間が長かった時代には、そうしたことが療養生活のアクセントになっていたところもあったんだね。「脱柵」という言葉には、冒険心やいたずら心といったものをくすぐる響きもあったのさ。

B ふうん。でもさ、有刺鉄線って、ちくちくしたトゲが出てる鉄線でしょ?ちぎられた穴っていうけど、そんな痛そうなところ、無理に通らなくてもいいのにね。ん? 痛そうなのがまた冒険っぽくてよかった?

O 吉行が入院していた清瀬病院の有刺鉄線は、いろいろあって、ちょっと特別。せっかく入荷した結核の新薬ストレプトマイシンの盗難や、患者の衣類の盗難事件があって、いろんな人が無断で出入りしていて。あれやこれやあった末「泥棒よけ」の鉄条網を昭和25年に新設したというわけなんだ。

B 泥棒よけの有刺鉄線かぁ。柵をつくる病院の人も、心チクチク痛んだろうね。ところで、藤井も手術を受けたの?

O 受けた。それは、吉行の手術から3か月も経った頃のことだが、同じように手術の前の日、藤井の病室を吉行が缶詰を手に訪ねてくれたそうだ。「藤井さんは、ぼくよりずっと軽症ですから、手術のことは心配ないですよ」と励ましも受けた。

B そっかぁ。なんか、いい話だなあ。

O そして、藤井は入院から13か月目にすっかり治って退院する。

B よかったね。藤井も吉行みたいに、退院してから、療養所のこと、小説にしてるの?

O 吉行のように退院の翌年、というわけじゃないが、少し経ってからジュニア向けの小説を書いているよ。藤井が朝日新聞社を辞めて作家として立ってからのことだ。その小説のことは、こんど話そう。

向いあいにあった藤井と吉行の入院先 航空写真

ブンガくんのイラスト

木の葉のライン

(図)
・結核研究所附属病院の病棟配置図
 『証言でつづる結核対策=公衆衛生の歴史』公益財団法人結核予防会(平成28年)掲載図を転載

(写真)
・朝日新聞社委託病棟外観 『六十年の軌跡』財団法人結核予防会(平成11年)掲載写真を転載
・航空写真 公益財団法人結核予防会提供 市史編さん室にて文字入れ加工
・清瀬松山緑地保全地域 市史編さん室撮影

(引用)
藤井重夫「骨肉」『作家』昭和42年10月号

 

 

葉っぱのイラスト

葉っぱのイラスト

より良いウェブサイトにするために、ページのご感想をお聞かせください。

このページに問題点はありましたか?(複数回答可)
このページの情報は役に立ちましたか?
このページは見つけやすかったですか?

このページに関するお問い合わせ

市史編さん室
〒204-0013
東京都清瀬市上清戸2-6-41 郷土博物館内
電話番号(直通):042-493-5811
ファクス番号:042-493-8808
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。