きよせ結核療養文学ガイド ブンガくんと文学散歩 <古賀まり子 1. 俳句との出会い>

ページ番号1013423  更新日 2024年2月8日

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木のはのライン

B ブンガくん O 樹の上の声(オナガ)

古賀まり子 1. 俳句との出会い

ブンガくんのイラスト

O 今回は久しぶりに俳人の話をしよう。清瀬で療養していた女性の俳人だ。

B 俳句の人だね。たしかに久しぶり。石田波郷さん以来だよね。

O そうだね。その人の名前は、古賀まり子という。これまでいろんな作家を紹介してきたけれど、彼女ほど壮絶な闘病生活をした作家はほかにいないかもしれない。

B えー、ちょっと待って。これまでの人たちも、それぞれみんな過酷だったと思うよ。なのに、それ以上なの? なんか、緊張してきちゃうよ。

O まず、生い立ちから話そう。古賀まり子は、大正13年(1924)4月、横浜市磯子区に生まれた。

B わーお、ちょうど100年前だね! 清瀬駅と同い年だ。

O そうだったね。生誕100年。ちなみに、吉行淳之介が生まれたのもこの年4月だ。

B へええ、吉行淳之介と同じ年か。

O 本人が書いた「古賀まり子略歴」によると、人物像はこんなかんじだ。

負ける事が嫌いで気が強く、大方の遊びは、家の前の野原で男の子を集めて大あばれをしていた。文学的才能ゼロ。それでも小学校、女学校は苦労しなかつたから、よき時代であつたのであろう。
(「古賀まり子略歴」)

B つよそう、だね。

O さてその古賀まり子は、高等女学校を経て、昭和16年(1941)に帝国女子医学薬学専門学校の薬学科に進学する。

B リケジョだったんだね。なんだか難しそうな学校に入っちゃってスゴい感じがする!

O 本人は女子大の家政科に進もうとしたんだが、両親の猛反対にあって方向転換。身体の不自由なものは自活できる資格を取れ、というのが父親の方針だったんだ。まり子は幼い時、当時流行っていた小児麻痺にかかって右足が不自由だったんだよ。

B わお、男の子を集めて大あばれ、っていうさっきの話からは、足の不自由さなんてちっとも感じられないよ。豪快でいいね! それでもやっぱり資格かぁ。僕のお父さんもよく言っているよ、資格を持っておいたほうがいいって。

O なんだかんだ言っても、いざとなると資格がものを言うというのは、きっと昔も今も変わらないんだろうね。ところが、だ。せっかく薬学の勉強を始めたまり子に、結核の影がしのび寄る。入学の翌年昭和17年、ツベルクリン反応陽転。これは結核感染を意味するから、ほんとうは、陽転から1年くらいは無理せず用心していなくてはならないんだ。レントゲン検査でも右の肺門リンパ腺が腫れているといわれたんだが、軍人の娘たるもの、勤労奉仕を休むわけにはいかない。

B え~ 心配だなぁ…

O 戦争が厳しくなるなか、昭和18年12月、一家の柱、海軍の軍人だった父親が、台湾沖で戦死してしまう。まり子は心身ともに疲れ果て、眠れない日々が続く。体は弱る。すると、当然のことながら体内の結核菌は勢いを増すわけだ。

B そりゃまずい、よ、ね。

O 昭和19年5月、レントゲン検査の結果、左の肺浸潤と診断され、1年間の休学を申し渡される。療養生活に入り、大学も中退せざるを得なくなるんだ。

B そ、そ、そんなぁ~。 …お父さんを亡くした上に、結核で学校も卒業できないなんて、かなしすぎない?

O たしかに。これも結核と戦争をまとった かなしい話だ。この先、まり子の結核とのたたかいは長く続くことになるんだが、入院先で彼女を待っていたのは、俳句との出会いだったんだから、かなしいばかりではなかったかな。

B 来た来た来た、清瀬だね?

O いや、最初の入院先は清瀬の病院ではなかったんだ。

B あら、ざんねん。

O このときの入院先は、千葉県の稲毛にあった額田医学生物学研究所付属病院。まり子が通っていた学校の関係者が開設した病院だ。当時の心境を綴ったまり子の言葉を紹介しよう。

俳句を始めたのは昭和十九年九月。薬学生の時で、結核の初期で療養中の退屈しのぎという極めて不純な動機だった。戦争も終りに近く紙の統制は厳しく、俳句の本など贅沢なものは入手するのは困難な時であった。
療養所内の句会は回覧形式で、患者同士の行き来は禁じられていたので、投句者の顔は分らなかった。
(「手書き季寄せ」)

オナガのイラスト

B 退屈しのぎだなんて、まり子さんも最初から俳句に興味があった、ってわけじゃなかったんだね。それにしても、顔も合わせられない句会かぁ…

O 回覧式の句会の名前は「夕日ヶ丘句会」といった。もう少し、まり子の言葉を紹介しよう。

十七音で季語一つと教えられたが、その季語がどういう物なのか知らなかった。
 鶏を呼ぶ 拍子木の音 秋の暮 昭和十九年
初めての句というものは下手でもなぜか覚えているものである。この句は療養所内の実景であり、患者の栄養補給のために鶏を放ち飼いにしていた。しばらくして「初めての人の句とも思えない。この学生は素質がある」という批評が届いた。後日知ったのだが、指導者は「馬酔木」の三句級の人であった。素直というか、うぬぼれというのか、この言葉を信じて、素質があるのならそれを伸ばさなければ、と思い込んだから恐ろしい。
(「手書き季寄せ」)

B 初めて詠んだ句で素質があるといわれるなんて凄いね!

O それからというもの、まり子は俳句に夢中になって、季語をノートに写して覚えていくのだけれど、あまりに夢中になり過ぎて、消灯後も灯りを布団の中に隠し入れて書き写すほどだったんだそうだ。

B え、だめでしょ、そういうの。

O 見回りの医者に叱られて、看視の届く病室へ移されてしまったんだよ。

B ほーら、ね。でもさ、そこまで夢中になれる、っていうのは、才能だよね。寝る間も惜しんで、ってさぁ、すごいよ。僕なんか睡眠より大切なものなんて無いもんな。

O まあ、そういわず。夢中になれるものが見つかると人生楽しくなるから、ブンガくんもいろんなことにチャレンジしてみるといいよ。

B そうかなあ。考えておこう。

O さて、古賀まり子。句会の縁で馬酔木添削会を知り、終生の師と仰ぐ水原秋桜子の指導を受け始めたんだ。

B あ、その人の名前は覚えがあるよ。石田波郷と同じ師匠だよね。

O そう。ブンガくん、よく覚えていたね。

B なんたって、馬が酔っぱらう木と書いて「あしび」だっていうし、コスモス子さんだなんてカワイイ名前だなと思ったら「しゅうおうし」っていう男の人だっていうし、そろってめっちゃ印象的だもん!

O なーるほど。当時、秋桜子は俳句界で超有名な句誌『馬酔木』を主宰していて、また、産婦人科医でもあったんだよ。水原秋桜子の指導について、まり子は次のように綴っている。

昭和二十年十月、馬酔木添削会のある事を知り、水原秋桜子の添削指導を受けた。朱の毛筆でていねいに添削して下さったが大変に厳しかった。本当のことを詠んでいるのにどうしていけないのか、などと不服に思った時もあったが、何も知らない初学の頃によき指導を受ける事が出来た私は、大変に恵まれていたと思う。
(「手書き季寄せ」)

B ていねいで、厳しい指導だったんだね。

O まり子は、着実に力をつけていき、翌21年7月には『馬酔木』に投句、初入選したのがこの句だ。

 月の出の 雲美しや 涼み舟

B すっごーーい! 超有名な俳句雑誌に初めて投句して入選するなんて、やっぱ、まり子さんはセンスが良かったんだね。この勢いならすぐにも句集が出た、とか?

O いやいやいや、ブンガくん。俳句も結核も、そう甘くはないのだよ。まり子の俳句は良くなっていくが、反対に病状は悪くなる一方だったんだ。

B ん? すると、そろそろ清瀬の出番かな?

O 昭和24年(1944)11月、清瀬病院に入院する。左の肋膜炎、腹膜炎、それに腸結核をひっさげて、古賀まり子の清瀬病院での壮絶な闘病生活が始まるんだ。

 戦争につづく時代の貧窮とともに病状は悪化し、ただ黙々と死神を待っていた私は、清瀬の門をくぐったとき、再び癒えて帰る気持はなく、よき死に場所を得たという安堵だけでした。
(「後記」復刊『洗禮』)

B まじ、すごそう。ドキドキしてきた... 

O ギュイ~ 続きは次回、話そう。

 

ブンガくんのイラスト

木の葉のライン

(引用)
古賀まり子「手書き季寄せ」『俳句』平成11年8月号 角川書店
「古賀まり子略歴」『俳句』昭和48年2月号 角川書店
古賀まり子「後記」復刊『洗禮』昭和60年7月 揺籃社

(参考)
古賀まり子「手書き季寄せ」『俳句』平成11年8月号 角川書店
古賀まり子 復刊『洗禮』 昭和60年7月 揺籃社
「古賀まり子略歴」『俳句』昭和48年2月号 角川書店
山西雅子「古賀まり子論ー今生の汗から闇のあをさまでー」『俳壇』平成5年2月号 本阿弥書店
島村喜久治「微笑む五十一枚目のカルテ」カルテにきざむ人生 第二話『保健同人』1954年3月号

葉っぱのイラスト

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