きよせ結核療養文学ガイド ブンガくんと文学散歩 <古賀まり子 2. 清瀬病院最大の傑作>

ページ番号1013442  更新日 2024年2月19日

印刷大きな文字で印刷

「ブンガくんと文学散歩」バナー画像

木のはのライン

B ブンガくん O 樹の上の声(オナガ)

古賀まり子 2. 清瀬病院最大の傑作

オナガのイラスト

O 古賀まり子が清瀬病院に入院したのは、昭和24年11月のことだ。症状重篤。もうだめになるのではないかと思われるほど悪くなっていたんだ。連日37.5度以上の熱があって、腸をやられているから下痢が続いていて、160センチの身長に対して入院時の体重は43キロしかなかったんだ。

B え~ 僕なんか、たまぁに熱が出るだけでも めっちゃ辛いのに、それが毎日だなんて、キツすぎだよ。

O 辛かっただろうね。ブンガくん、ストレプトマイシンという薬の名前をきいたことがあるかな?

B え?なにマイシン?

O ストレプトマイシンといってね、1944年にアメリカのワクスマン研究所でみつかった薬で、結核に効果がある薬として、日本にも昭和20年代半ばに入ってきたものなんだ。清瀬病院にストレプトマイシンが入ってきたのは、昭和24年の5月。日本のなかでも早いほうだった。略して「ストマイ」とも呼ばれたね。

B ストマイかぁ。古賀さんは、その薬を使ったの?

O そう。待望の薬だったストレプトマイシンは、清瀬病院に入ってきたといっても、まだ入荷量は少なかった。だから、どの患者にどう使うか、医局会にはかって決められたんだ。患者の切なる希望を直接知っている担当医は、ストマイが使えるように医局会で熱弁をふるい、ときに適応を懇願したと語り継がれた、そんな貴重な薬だった。このストレプトマイシン、まり子には1日1グラムずつ40日続けて使われた。すると、熱が下がり、下痢も止まり、腸結核の症状も改善したんだ。体重も50キロまで増えた。

B ストマイが効いたんだね! よかった。これで助かったね。

O ところが、今度はおなかに新たな問題が発生する。腸結核がよくなった結果、今度は腸狭窄の症状がが悪化。おなかが張る、痛む、便が出ない、吐いて食べられない…

B 結核がよくなったのに、違う症状が出るなんて、あんまりだよ。どうにかならないの?

O 内科的にいろいろな治療を試みたんだが、症状は悪化する一方。開腹手術を行うことになる。

B わあ、手術かぁ

O おなかを開けてみると、回腸と盲腸の境目がごっちゃに癒着していたんだ。

B 癒着って、くっついちゃってた、ってこと?

O そう。ひどい癒着ではがすことができなかった。だから、その部分を、一尺というから、そうだな約30センチ、切り取ってつなぎ合わせた。ほかの癒着部分もできるだけはがして、おなかを閉じた。

手術室のようす

B うひゃあ、聞いてるだけで、僕のおなかが痛くなっちゃいそ。でも、これで良くなったんだよね。

O 一時的には、ね。術後は経過がよかったのに、数か月経つとまた腹痛や吐き気が現れて、2回目の開腹手術を受ける。2回目もまた、術後の経過は良好なのに、翌月また症状が出たんだ。2回目のあとは、頭痛もひどくて、検査をしたら、結核性脳膜炎を発症していたことがわかる。

B え~ 腸の結核が治っただけじゃ、だめだったの? でも、また、魔法の薬ストレプトマイシンを使えば治るんだよね?

O まり子の場合、すでにストレプトマイシンを40グラムも使っていたからね。続けてあまりたくさん使うと効かなくなってしまう心配があった。でも、ほかに方法がなくて、毎日ストレプトマイシンの注射が続けられた。このとき主治医は母親に、深刻な状況だと告げている。

B そんなぁ。

O 幸い投薬の効果あり、脳膜炎の症状は改善した。ところが、まり子は生まれて初めての喀血にみまわれる。喀痰から結核菌も認められるようになり、めまいも起こったのを見て、ストレプトマイシンは70グラムで中断。脳膜炎は薬をやめても落ち着きをみせたんだが、再び腹膜の癒着がひどくなって、吐き気と腹痛が強くなってしまった。

B まさか、また手術?

O 昭和26年5月、3回目の開腹手術をして、癒着を丁寧にはがした。術後、心配した脳膜炎の再発もなく、腹痛も吐き気もやわらいできた。

B よかった… これで、あとはよくなるだけでしょう?

O 手術はうまくいった。それでもやはり、1年間、ほとんど毎日、頭痛、吐き気、嘔吐、呼吸艱難、心悸亢進、腹痛、といった文字のどれかが、まり子のカルテに書かれ続けた。それでも今度こそ回復につながると信じたのだが…

B いやだよ、もうこれ以上。勘弁してよ。嘘でしょ。まり子さんを助けてあげて!

オナガのイラスト

O なりをひそめていた結核菌がうごめき始め、肺結核が悪化。ストレプトマイシンは、耐性の心配があったので、別の抗結核薬ヒドラジドを投与。すると、たちまち熱は下がって、食欲も出た。

B よかった。ストレプトマイシンのほかにも、結核に効く薬が手に入ったんだね。

O ストレプトマイシンに続いてパス、ティビオン、そしてさっき出てきたヒドラジドも導入された。いくつかの薬を組み合わせて使えるようになってから、ひとつの薬だけのときよりも耐性の心配が減ったんだ。

B ふぅ、長い道のりだったねぇ。

O いやいや、まり子の闘病はまだ続くんだ。次第におなかが張って、吐き気も強くなり、連日、輸血をせざるを得なくなる。めまいが起こって、とうとうヒドラジドも諦めることになるんだ。

B もう聞いていられないよ。まり子さんは助からないの?

O 清瀬病院の島村喜久治院長は、当時を振り返ってこんなふうに綴っている。めまいがするので、まり子は、窓に黒いカーテンが張られた病室で、目を閉じて横になっていたんだ。

うす暗くした部屋で、おなかが痛むというので、診察すると、三回の手術の傷あとが、白いおなかに、いたましい瘢痕をつくっていました。そのころのことを、この人は今、どんな思いで想い返しているでしょうか。私は、もう、あきらめねばならないのだろうかとやり切れない思いで、手触りのよくない瘢痕をなでたことを想い返しています。
(島村喜久治「微笑む五十一枚目のカルテ」)

B ……

O ブンガくん、泣かないで。続きを聞いて。

六ヵ月たち、八ヵ月たちました。カルテが少しずつきれいになつて、部屋の黒幕がとられ、この人は、回診の時に目を開けるようになり、ついには、笑えるようになりました。
(島村喜久治「微笑む五十一枚目のカルテ」)

B た、たすかった、ん、だね。

O まり子の生命力が勝ったんだ。まさに奇跡。こうなると医者も本人も欲が出る。体力が戻ったところで、左肺の空洞を切除する手術を受ける。これが最後の手術となって、まり子は12年に及ぶ結核とのたたかいに終止符を打ち、社会復帰するんだ。

B あああああああ、よかったああああ。まり子さん、すごいね。先生も、病院の人たちも、すごいね。

O 島村先生が、まり子のことを「清瀬病院の最大の傑作」と呼んでいるわけ、わかるね?

B 最高傑作だよ。傑作といえば、そういえば、俳句は?

O 文芸活動もさかんだった清瀬のことだからね、俳人との新しい出会いもあったし、まり子はもちろん、詠み続けていたよ。『馬酔木』同人の山田文男と清瀬病院で出会って、彼に学びながら俳句を作ったんだ。なにより、母親思いだった彼女としては、自分のほうが先に死ぬかもしれないと思っていて、せめて娘が生きた証を母のために俳句で残したかったのだと語っているよ。

B そうなんだね。清瀬でまり子さんが詠んだ俳句の話、聞きたい、聞きたい!

O ようし、じゃあ次回、ぜひそうしよう。

ブンガくんのイラスト

木の葉のライン

(写真)
清瀬病院 手術室のようす「肺外科手術」国立療養所清瀬病院『開院二十五周年記念誌』昭和31年10月より転載

(引用・参考)
島村喜久治「微笑む五十一枚目のカルテ」カルテにきざむ人生 第二話『保健同人』1954年3月号
古賀まり子 句集『洗禮』 昭和39年5月 麻布書房
古賀まり子「手書き季寄せ」『俳句』平成11年8月号 角川書店
国立療養所清瀬病院『開院二十周年記念誌』昭和26年10月

葉っぱのイラスト

葉っぱのイラスト

より良いウェブサイトにするために、ページのご感想をお聞かせください。

このページに問題点はありましたか?(複数回答可)
このページの情報は役に立ちましたか?
このページは見つけやすかったですか?

このページに関するお問い合わせ

市史編さん室
〒204-0013
東京都清瀬市上清戸2-6-41 郷土博物館内
電話番号(直通):042-493-5811
ファクス番号:042-493-8808
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。