市史編さん草子「市史で候」 六十三の巻 「どんどんってなあに」
六十三の巻:「どんどんってなあに」【令和2年1月27日更新】
「どんどん」について調べてください
「市史で候」お便りコーナーにこんなお声をいただきました。
以前清瀬市にお住まいだった方からです。
「どんどん」、皆さんはご存知ですか?
1973年刊行の『清瀬市史』、144ページにこうあります。
「それは清戸下宿の台田地内にある通称ドンドンとよばれているところである。そこは柳瀬川に面する台地の肩部で、すぐ北側が急な斜面になっているが、ここに立って足もとをたたくようにはねてみると、地下に空洞の部分があるかのようにドンドンと響くというのである。あるいは横穴や地下式壙でもあるのだろうか。」
その場所はこちらです。
本文では「ドンドン」、図では「どんどん ?」となっています。
清瀬市内でまだ見つかっていない、古墳時代の遺跡の候補地として取り上げられました。
横穴(よこあな)とは、横穴墓(よこあなぼ)ともいい、古墳時代の後半(5~7世紀)にみられる崖や急斜面に横穴を掘って作られたお墓です(おうけつ、おうけつぼ、ともいいます)。最も有名な例が、埼玉県吉見町の吉見百穴です。
地下式壙(ちかしきこう)とは穴蔵のことで、特に中世の遺跡から見つかる穴蔵を地下式壙といいます。
実は市史編さん室でも、遺跡の可能性がある「どんどん」に注目。
「どんどん」についての情報を探していたところ、『清瀬の川物語 柳瀬川と空堀川の昔と今』(2016年刊行、以下『清瀬の川物語』とします)に「ドンドコ坂」の記事がありました。
「ドンドコ坂 中里六丁目の東の端にある日本サーモスタットの建物と、その東にある駐車場のフェンスのあいだに、細い道の跡があり、藪に続いています。藪の先は住宅の敷地になり、古い道は消えてしまっていますが、この先にドンドコ坂がありました。その上で飛び跳ねると、ドンドンと地下に空洞があるような音がしたそうです。略 北秋津にも同じ名前の坂があります。」(『清瀬の川物語』143ページ)
『清瀬市史』で「どんどん」、「ドンドン」とされた場所は、地元では「ドンドコ坂(ドンドコザカ)」とよばれていたようです。
『清瀬の川物語』が刊行された時には、既にドンドコ坂はなくなってしまっていました。
上の文章と図を元に、現地に行ってみましたが、その時は場所がはっきりとはわかりませんでした。
このたび、「市史で候」のお便りコーナーに寄せられたお声をうけて、あらためて調査を開始。
『清瀬の川物語』で坂の項を執筆されたうちのお一人で、市史編さん委員でもある方にご協力をあおぐと、さっそく次のふたつの資料を紹介してくださり、2008年のドンドコ坂の写真(図4)も提供してくださいました。
資料のひとつめは斎藤経男さんの「ラッパにたいこドンドコ坂」(「市報きよせ」 昭和50年10月15日号「さんぽ道」)です。
地図と写真が掲載されていました(図3)。
図3 ドンドコ坂の写真と位置(『市報きよせ』昭和50年10月15日号)
秋津にもドンドコ坂と名づけられている場所があり、そこから実際に横穴墓が発見されたことが紹介されています。
ふたつめは浅野久枝さんの論文「「村境」認識についての一考察 東京都清瀬市下宿の「ふせぎ」行事の事例から」です。
中里村と下宿村の「境の道」に、ふせぎの“小さい蛇”が取り付けられる場所があり、その南にドンドコ坂(ドンドコザカ)があったと書かれています。
地元の協力者のお話では、急坂のハケ(崖)に横穴が掘られて、「穴蔵」として利用されていたそうで、浅野さんは、そのために地下に空洞ができて音がしたのでは、と推測しています。
この場合、古墳時代の横穴ではなく、現代に掘られた穴だったのでしょうか。
そしてこちらが2008年のドンドコ坂です。
図4 2008年のドンドコ坂 上:西から撮影 下:北から撮影
ドンドコ坂は、今から5年くらい前の宅地の造成によって、コンクリートの擁壁が作られてなくなってしまったのですが、それまでは姿を変えながらも、まだあったのです。
市史編さん委員の方のご紹介で、地元の方にドンドコ坂があった場所と、あたりが宅地になる前の様子を教えていただくことができました。
場所は、柳瀬川通り沿いのセブンイレブンの北側、日本サーモスタット社屋の奥、宅地の先の畑にあたります(図5)。
この坂がなくなったことで、昔からの「中里と下宿の境の道」が、地図の上でしかたどることができなくなってしまいました。
このあたりが宅地になる前は、柳瀬川通り周辺はヤマ(雑木林)で、ヤマの中の道からドンドコ坂を下ると畑、畑からまた雑木林を抜けて坂を下りると堤防、その向こうが柳瀬川、という景観だったそうです。
斎藤経男さんの記事にある写真(図3)から、その頃の様子がうかがえます。
今でも、すぐ近くの台田の杜にそんな風景が残されています。
では、ドンドコ坂は古墳時代の遺跡だったのでしょうか。
残念ながら、調査を行う前に坂がなくなってしまったので、はっきりしたことはわかりません。
地元の方によれば、宅地の造成のための工事の際には、特に見つかったものはなかったようです。
この坂のまわりには横穴が掘られて、「穴蔵」として利用されていたそうなので、浅野さんが論文に書かれたように、その空洞が足音をひびかせていたのかもしれません。
ところで、斎藤さんの記事にある秋津のドンドコ坂で見つかった横穴墓とは、どんなものだったでのしょう。
それについては次回ご紹介します。
引用・参考文献
浅野久枝1997「「村境」認識についての一考察―東京と清瀬市下宿の「ふせぎ」行事の事例から―」学芸地理51号、東京学 芸大学地理学会
清瀬市史編纂委員会1973『清瀬市史』清瀬市
斎藤経男1975「さんぽ道 ラッパにたいこドンドコ坂」『市報きよせ』 昭和50年10月15日号
田中琢・佐原真2002『日本考古学事典』三省堂
星野三郎・齊藤隆雄2016「清瀬の坂道」、川づくり・清瀬の会編『清瀬の川物語 柳瀬川と空堀川の昔と今』清瀬市
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