市史編さん草子「市史で候」 四十六の巻(3) 「ここに清瀬病院ありき」第3回「幕が下りる」
四十六の巻(3):「ここに清瀬病院ありき」第3回「幕が下りる」【平成30年4月20日更新】
清瀬病院、名前かわって東京病院清瀬病棟に思いがけない形で幕が下されたのは、昭和45(1970)年のことでした。
ごく近くにあった2つの国立療養所、清瀬病院と東京療養所は、昭和37(1962)年の統合を機に、国立療養所東京病院の名の下、近代的な医療施設として生まれ変わろうとしているところでした。
東京病院の新しい病棟は、敷地がより広い元東京療養所側に建てられ、新しい病棟ができあがった順に、それぞれの木造病棟からの患者移転が進んでいました。
まず外科病棟の患者が、続いて重症病棟の患者が、清瀬病棟からも新築病棟に移りました。
昭和45(1970)年が明けて、内科の新病棟もできあがりました。
清瀬病棟からの移転は、内科病棟の患者を残すのみ。
患者の移転完了の暁には、清瀬病棟の門は病院の40年近い歴史を感慨深く振り返りながら静かに閉じられるはずでした。
ところが。
昭和45年1月31日土曜日のお昼、大風のなか清瀬病棟から出火。
懸命の消火活動が行われましたが、強い北風にあおられ、木造のかなしさ、火元の病棟と風下側の隣の病棟が焼けてしまいました。
清瀬における史上最大の火事でした。
ひとりのけが人も出なかったのはせめてもの幸いでしたが、清瀬病棟にあったカルテやレントゲンフィルムが大量に焼失あるいは冠水。
患者自治会の図書室蔵書8千冊も焼失。
所持品をすっかり焼かれて失意に暮れた患者もありました。
焼け出された患者はその日のうちに、そして、焼け残った病棟の患者も2月7日までに全員が元東京療養所側敷地の新館に移りました。
焼け残った病棟も、管理棟からの連絡ができない状態になって、病院として機能することが難しくなったためです。
実は、内科病棟の患者移転を控え、長い年月、窓を開け放った木造病棟の療養生活に馴染んだ患者のなかには、愛着ある「清瀬病院」から離れたくないと強く抵抗していた人もいました。
いわく
「あんな閉め切りの鉄筋病棟に入れられたら窒息するじゃないか」
病棟閉鎖とあっては、もはやそうも言っていられなくなりました。
こうして患者の全移転が完了。
清瀬病棟は昭和45年2月13日に閉じられ、その歴史に幕が下ろされたのでした。
いや、もっと後にも病棟の姿を見たぞ、という方もいらっしゃるでしょう。
古い木造病棟が撤去され姿を消したのは、昭和54年秋のことでした。
「市報 きよせ」昭和54(1979)年11月1日号の記事が、病棟の取りこわしを伝えています。
改めて清瀬病院の歴史を振り返ってみましょう。
昭和6(1931)年10月の開設から昭和37(1962)年1月の統合まで、30年余。
「国立療養所東京病院清瀬病棟」となった後、昭和45(1970)年2月、病棟が閉鎖されるまでを数えれば、38年余。
清瀬病院の歴史は、時代を映してきました。
昭和初期、結核は不治の病として怖れられ、「亡国病」とも呼ばれるほどに猛威をふるっていました。
そうしたなか公立の結核療養所として設けられた府立清瀬病院ですが、開設のころは、有効な薬は未だ世になく、よい空気の中で栄養をとり安静にすることで結核に向き合っていた時代でした。
清瀬病院も、のちに外来診療を始め、有料病床も設けるのですが、当初は、貧困で「療養ノ途ナキ者」の全額公費入院受入れ施設であったことから、重症患者が多かったといいます。
ようやく胸郭成形術が行われるようになったのが昭和10年代半ば。それまでは人工気胸療法が唯一の積極的治療法で、あとは専ら「大気・栄養・安静」という時代でした。
清瀬病院の二代目院長(のちの東京病院二代目院長)島村喜久治氏が、戦前の「隔離と収容の時代」を振り返って記した文章のなかにこんな一文を見つけました。
結核で多くの人が亡くなりました。
人口10万人に対して結核で死亡した人が何人いたかを示す結核死亡率の数字でお話すると、これは全国での話ですが、最も死亡率が高かった大正7(1918)年は257.1でした。
戦前の最後の統計で、昭和18(1943)年の235.3
戦後最初の統計では、昭和22(1947)年の187.2
10万人のうちまだ200人近い人が結核で亡くなっていました。
結核の治療薬ストレプトマイシンが入ってきたのが、昭和24(1949)年。
この年の死亡率が168.9
3年後、昭和27(1952)年には100を切って82.2
昭和31(1956)年には50を切り48.6
結核の死亡率はピークだった年の5分の1まで低下しました。
療養所での変化は、回復して退院する人の増加、入院の短期化、そして新たな入院患者の減少にあらわれました。
清瀬病院においても、しかり。
患者の減少、施設の老朽化から、東京療養所と統合して近代的な病院を目指した背景にはこうした変化がありました。
病院の歴史の一幕には戦争の時代もありました。
戦争中は病院も、人手不足と、薬品や資材の不足と食糧難に悩みました。
応召や疎開で医師や職員の人数も少なくなりました。
レントゲンフィルムが手に入らなくなり、レントゲンペーパーが使われるようになりました。
乏しい病院食糧を少しでも補うべく、病院のグラウンドは職員たちの手によって耕されました。
終戦後の、いよいよ今夕の食糧もないという日々には、医療団の承認を得て倉庫内の衣類を放出、米やイモと交換してもらえないかと職員が走りまわったといいます。
食糧難などから地方へ疎開する患者が多くなった結果空いていた病棟に、本所深川の東京大空襲による負傷者を受け入れて手当てにあたった日々もありました。
そして昭和20(1945)年4月2日には空襲によって病棟の一部が被害を受け、患者2名の犠牲者が出たこともまた、清瀬病院の歴史のひとこまに刻まれています。
昭和6年、清瀬の南西部、「芝山」と呼ばれた地区の雑木林を切り拓いて建てられた結核療養所「府立清瀬病院」。
早い時代に入院した人たちにとっては特に、ここは短くない期間をすごした場所で、病院でありつつ、そこはまさに生活の場でもありました。
清瀬には大きな療養所や結核研究所があって、進んだ治療法に熱心に取り組む医師たちがいました。
清瀬に行けば最新の結核医療が受けられる。
そうすれば、助かるかもしれない。
清瀬は結核患者にとって希望の地だったといいます。
病院は静かな松林に囲まれた環境にありました。
院内には、四季折々の花が咲いていました。
医師がそばにいるという安心感があり、病棟まわりの自然に気持ちを癒されることもあったでしょう。
病院内には文芸や美術などのサークルもありました。
病院が静まり返る「安静時間」を過ぎれば、体力に応じておだやかな趣味の時間を過ごすこともできました。
それでも、死と隣り合わせの療養の日々であることに変わりはありませんでした。
良くなったかに見えた同室の患者が急変して亡くなることもありました。
退院を心待ちにしながら、検査の数値が思わしくなく、予定通りにことが進まないこともありました。
「結核療養中である」という一点で等しくとも、それぞれの病状も、抱える事情も、好みも、さまざま異なる患者が、病気の不安、生活の不安、将来の不安を抱えながら大部屋で集団生活を送るのです。
それぞれに思うところ多々あって、ときにそれがぶつかることがあったとしても不思議ではなかったでしょう。
松の梢をわたる風は、病棟を吹きぬけて知る人間ドラマのあれこれをささやき合っていたでしょうか。
ここに清瀬病院ありき
病棟が閉じられた時、病院の名前はたしかに「国立療養所東京病院」ではありましたが、病院街の始まりとなったこの場所は、その歴史に鑑みて、やはり
「清瀬病院跡地」
と呼ぶのがふさわしく思われます。
石碑は昭和62(1987)年5月、清瀬病院同窓会ならびに患者自治会清風会によってたてられました。
病棟および病室写真
『清瀬病院年報 第五』(昭和11年)国会図書館デジタルコレクションより転載(著作権保護期間終了確認)
参考資料
『雑木林 清瀬病院の憶い出』国立療養所清瀬病院同窓会 昭和59年
『開院二十五周年記念誌』国立療養所清瀬病院 昭和31年
『国立療養所東京病院 統合15周年記念誌』国立療養所東京病院 昭和53年
「国立療養所東京病院 療養だより」Vol.9.No.2 国立療養所東京病院 昭和45年2月
公益財団法人結核予防会結核研究所疫学情報センター
『市報きよせ 縮刷版』第2巻 清瀬市 昭和55年
ほか
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