清瀬と結核 その歴史と今

ページ番号1010362  更新日 2022年12月13日

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結核療養所の街

病院街のなりたち

清瀬は、柳瀬川に沿う野塩、中里、清戸下宿、志木街道に沿う上清戸、中清戸、下清戸という6つの村から成る静かな農村でした。明治22年(1889)の市町村制施行にともなって誕生した清瀬村ですが、無医村であったと言われます。大正4年(1915)に池袋と飯能を結ぶ武蔵野鉄道(現・西武鉄道)の線路が敷かれましたが、そのころ村の人々の暮らしが営まれていたのは、主に線路の北側でした。秋津駅の開設が大正6年(1917)、清瀬駅ができたのは、ようやく大正13年(1924)のことでした。

線路の南側、現在、数々の病院がある一帯には、雑木林が広がっていました。その雑木林の中に、昭和6年(1931)、結核を専門とする東京府立清瀬病院ができ、これを皮切りに、周辺に次々と結核療養所が建てられました。

清瀬の一大療養所群

「結核療養所」ときくと、堀辰雄の小説「風立ちぬ」の舞台となった富士見高原療養所など高原の療養所や、「武蔵野」の著者 国木田独歩が療養した茅ケ崎の南湖院のような海に近いサナトリウムを思い浮かべる方も多いことでしょう。

清瀬の療養所はいずれも昭和6年以降にできたものですが、その数は、多いときには十を超え、患者の総数は5千人に及んだといいます。都心からの距離も比較的近く、しかも電車の駅からそう遠くないところに、これほど多くの結核療養所が集中して病院街を形成したのは全国的に見ても珍しいことで、清瀬の大きな特徴といえます。


結核と向き合ってきた歴史

結核のまん延と療養所

結核は、結核菌による感染症で、空気感染します。古い病気ですが、日本では明治以降の産業革命による人口集中にともなってまん延し、治療薬もなかったことから不治の病として恐れられました。

結核療養所(サナトリウム)は、明治半ば以降いくつか作られていましたが、私立がその中心であり、高額の療養費用が必要でした。公立の療養所が本格的に建設されるようになったのは大正時代に入ってからのことです。東京市療養所*は、大正8年(1919)江古田の地に開かれました。

昭和のはじめ、東京にあった公立の結核療養所はこの東京市療養所のみでした。あふれる結核患者を収容するため、東京府は清瀬に東京府立清瀬病院を開設します。昭和6年秋のことでした。

当時、日本中に多くの結核患者がいました。その数は、昭和10年代、戦争の深刻化とともにさらに増加しました。結核で亡くなる人も多く、昭和10年から25年まで死因1位の病気でした。亡国病とも呼ばれ、恐れられ嫌われていた病気でしたから、結核療養所のための土地探しはたいへんな仕事でした。

民家の傍らに結核療養所は建てられません。清瀬には、府立清瀬病院の周囲にまだ広大な雑木林が残されていましたから、時代の要請を受けてそこに結核療養所が次々に建てられていったのは、いわば当然のなりゆきでした。

*東京市療養所 のちの国立療養所中野病院。跡地は江古田の森公園の一部

療養の時代から治療の時代へ

有効な薬が使えるようになるまで、結核に向き合うには「大気・安静・栄養」つまり、きれいな空気の中で、安静にし、栄養をとって体力をつけるという療養の時代が長く続いていました。雑木林の中に建てられた清瀬の療養所は、この時代の療養環境にぴったりでした。そのころの療養には、年単位の長い時間が必要でした。

戦後、有効な治療薬による化学療法がおこなわれるようになり、また、外科手術も、ろっ骨を何本か切除し肺に圧を加えて結核菌をとじこめようという胸郭成形術(きょうかくせいけいじゅつ)に代わって、肺の病巣部分だけを切除する肺切除術が行われるようになりました。

薬と高度な外科手術によって結核は治る病気になり、療養の時代から治療の時代へ移行。入院期間もずっと短くなりました。

臨床・研究・予防

清瀬の病院街では、十数の結核療養所に5千人に及ぶ患者を擁し、熱心な結核専門医たちがそれぞれの療養所や病院で患者の治療や臨床研究にあたっていました。

また、病院街にある結核予防会結核研究所では、結核に関するさまざまな研究がなされてきました。細菌学的研究、病理学的な研究、また、結核のまん延をくい止める対策に関する公衆衛生学的な研究、等々です。

注目すべきは、結核の予防ワクチンBCGに関する研究です。BCGワクチンは当初液体で供給されていましたが、結核研究所の研究によって、質・量ともに安定した凍結乾燥BCGワクチンの大量生産が可能になりました。この成果は、その後のBCGワクチン接種促進に大きく寄与しました。現在、BCGワクチンの製造は日本ビーシージー製造株式会社に引き継がれていますが、国内で使われているBCGワクチンはすべて清瀬で製造されたものです。高品質で定評のある清瀬のBCGワクチンはユニセフを通じて世界約50か国にも提供され、世界の結核予防に大きく貢献しています。

結核の今

とはいえ、日本の結核は根絶されたわけではありません。ようやく2022年、低まん延国の仲間入りを果たしたものの、いまなお新しい感染や、昔の感染からの発病者があり、特に高齢者の多くは時代背景から既に感染していると考えられ、注意が促されているところです。

また、薬に対する耐性を持つ結核の例もあって、新たな課題となっています。


結核との闘いから生み出されたもの

Kiyose's Knowledge

医学面では、胸部X線写真読影法の開発や外科療法の開拓がなされました。清瀬の代表的な施設で生み出された結核の診断や治療法が全国に普及、清瀬は結核病学のリーダー的役割を果たして来ました。

そして、清瀬で培われた結核対策の英知は、国内研修のみならず、結核研究所で50年以上続いている国際研修コースを通じて世界のドクターたちに受け継がれています。世界のあちらこちらに KIYOSE の名をなつかしく思う人たちがいます。

リハビリテーションの科学と実践

単なる機能回復だけでなく、病後の社会復帰までを視野に入れた広い意味でのリハビリテーションについて、清瀬には早くから関心を寄せたドクター達がいました。欧州留学で学んだリハビリテーションも療養所で実践に移されました。病棟での療養から回復期の作業療法まで一貫した療養体系があり、また、病院街のなかには回復期の患者が職業訓練を受けられる後保護施設もあって、職業的リハビリテーションとも密接につながっていました。特に臨床検査技師に関しては、専門の養成所に発展し、卒業生の回復後の就職を確実なものにしました。

リハビリテーションを支える専門家である理学療法士、作業療法士の日本における養成は、清瀬の地で始まりました。清瀬の「東京病院附属リハビリテーション学院」は、日本のリハビリテーションの礎石を築く卒業生を送り出したのです。

文学

結核と向き合うなか、清瀬で生まれたものは医療に関することばかりではありません。

俳人石田波郷は、清瀬の国立東京療養所で療養の日々を過ごしました。生と死を見つめる中で詠まれた句を編んだ『惜命』は、まさに結核との闘いから生まれたもので、療養俳句の金字塔と言われています。

同じく東京療養所で療養の日々を過ごした福永武彦の小説「草の花」、清瀬病院で手術を受けた吉行淳之介の「漂う部屋」など、療養生活を反映した作品も生み出されました。

俳句や短歌、詩などのサークル活動もさかんで、院内の同人誌も生まれました。「書く」ことは、療養の支えでもありました。


病院街の今

一般病院への移行と結核病床

結核療養所として始まった病院のうち、7施設は現在も開設の地で医療を続けています。結核患者の減少にともなっていずれも結核専門病院から一般病院に転じましたが、このうち3施設では現在もなお結核病床が維持されています。

都内全域における結核病床は、令和3年10月1日現在、総計269床、そのうちの8割に迫る208床が清瀬の病院街にあることは、特筆すべきことでしょう。

かたちを変えて

清瀬で最初にできた結核療養所「東京府立清瀬病院」の病棟跡地には、中央公園や国立看護大学校ができ、もと東京療養所の敷地一部には、日本社会事業大学ができました。病院周辺には住宅も増え、小学校、中学校もできました。憩いの緑を残しつつ病院街が維持され、そこに人々の営みがあり、結核はもとより看護、福祉分野の研究拠点が市民生活と隣接してあることは、結核療養を支えてきた清瀬が誇りとするところです。

思い出の地、生活の地

化学療法が導入されるまで、結核の療養には長い時間を要しました。多くの結核患者にとって清瀬は、懸命に治癒を目指して療養生活を送った思い出の地にほかなりません。

生まれ育った地、それまで暮らした地を遠く離れて清瀬の療養所に入った人もいましたが、なかには結核が治って療養所を出たのちも清瀬に住み続けた人が少なからずいます。病院が近くて安心だからというだけでなく、療養生活をおくるうちに愛着がわき、退所後も清瀬で暮らすことにした人も多いのだとききます。


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