市史編さん草子「市史で候」 四十一の巻 「清瀬中学校で縄文時代の石器を発見」
四十一の巻:「清瀬中学校で縄文時代の石器を発見」【平成29年9月15日更新】
市史編さん委員会 考古部会から
平成29(2017)年6月某日、清瀬中学校で縄文時代の石器を発見しました(写真左)。
とはいえ、清瀬中学校で発掘調査をおこなったわけではありません。
かつて清瀬市内で発見された石器が、長い間清瀬中学校に保管されていたのです。
昭和41(1966)年に東京都教育委員会が発行した『北多摩文化財総合調査報告』に、
清瀬町内の遺跡が7か所紹介されています。
そのうち「野塩・外山(八幡神社付近)」、「野塩・外山(円福寺付近)」、
「中里・金山道」の出土品が清瀬中学校所蔵とされていました。
(地図をご覧ください)
出土品の内容には、
- 縄文土器(中期)、石鏃(せきぞく:石の矢じり)
- 打製石斧(だせいせきふ:石を割って作られた斧のような形の道具)
- 石皿(いしざら:すり痕のある大きな石の道具、うすの下石として使用された)
- 土師器(はじき:古墳時代~奈良・平安時代の素焼きの土器)
があげられています。
今回清瀬中学校で見つけることができたのは打製石斧と石皿片などの石器計40点です。(冒頭の写真)
『北多摩文化財総合調査報告』に掲載されている「4. 野塩円福寺付近発見石器」の写真と照合してみましょう。
このうちの4点が今回見つかった石器に含まれています。
野塩地域では、これまで野塩外山遺跡、野塩前原遺跡、野塩前原東遺跡で発掘調査が行われ、縄文時代中期(約5,500年前~4,000年前)のムラの跡が見つかっています。
野塩地域は発掘調査が行なわれるずっと以前から、地元の方々には土器や石器が出ることが知られていたようですね。
中里・金山道では発掘調査は行われていませんが、同じく縄文時代中期の土器や石器が見つかっています。
清瀬中学校発見の石器も、その特徴と、発見地近くの発掘調査や採集資料からわかった遺跡の内容から、縄文時代中期の石器と考えられます。
昔の人たちが暮らしていた場所=遺跡と、そこで使われていた道具=土器や石器などは、昔の人たちの直接の生活の証です。
土器や石器を手にとり、静かに目を閉じれば、遠い古の先人たちの暮らしを想いしのぶことができるでしょう。
もしかしたら、あなたの先祖が使ったものかもしれませんよ!
今回見つかった石器は、これから洗浄、写真撮影、実測図の作成、計測、特徴などを記載して、報告書を作成します。
こうすることで清瀬市の縄文時代を考えるための新たな資料として加えることができます。
一つ一つの遺跡や資料からわかることをたくさん集めていくことが、清瀬市の歴史、ひいては私たちの国の歴史や文化の成り立ちを理解することにつながっていきます。
ところで、清瀬中学校に伺った時のこと。教材室の中央の机の上に段ボールに入った石器が置いてありました。
校長先生のご指示の下、あの部屋のどこかで石器を発見した方が、私たちが見つけやすいように置いておいてくださったそうです。
この場を借りてお礼申し上げます。
清瀬中学校の小島校長先生には、お忙しい中校舎を案内してくださり、他にも貴重な資料をご提供いただきました。
ありがとうございました。
考古部会では、市内の考古資料、遺跡の情報をひきつづき求めています。ご協力くださいますようお願い申し上げます。
参考文献
東京都教育委員会 『東京都文化財調査報告書18 北多摩文化財総合調査報告 第2分冊』1966年発行
清瀬市『清瀬市史』1973年発行
小林達雄編『考古学ハンドブック』2007年発行
文化庁文化財部記念物課監修 独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所編 『発掘調査のてびき―整理・報告書編―』 2010年発行
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