市史編さん草子「市史で候」 七十二の巻 「療養所ノ文芸同人誌求ム」

ページ番号1007829  更新日 2020年12月18日

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市史編さん草子(ぞうし)「市史で候(そうろう)」 市史爺(ししじい) 清瀬市は、昭和45(1970)年10月1日誕生。市制施行50周年を視野に入れ、現在、清瀬の歴史をまとめる事業を展開中です。当ブログでは事業の経過報告のほか、清瀬の歴史や文化、自然を楽しくご紹介しています。

七十二の巻:「療養所ノ文芸同人誌求ム」【令和2年12月7日更新】

句誌「松濤」昭和25年1月号表紙

「松濤」しょうとう。療養所内の俳句誌のひとつです。

写真は、「松濤」昭和25年(1950)1月号の表紙。
謄写版印刷、全17ページの小冊子で、収められているのは選者と会員の作品です。
「松濤」は、これが第6巻第1号という古い句誌です。

この号は、俳人石田波郷が清瀬の東京療養所にいたときのもの。
波郷は入所中の昭和24年から退所後も27年まで選句を担当しました。

療養所のなかには俳句や短歌、詩などのサークルがあり、東京療養所に限らず句会や句誌もあちらこちらにあったといいます。
病棟の句会もあれば、近隣の療養所からの投句も受付けるなど広範囲なものも。

波郷が退院後にまとめた『清瀬村』から、「松濤」にふれたところを引いてみましょう。

 しどみ紅く滴りて服売りし金とどく
新入患者のレントゲン写真をとるため、赤松の下を通って治療棟に出かけた帰りに、売店の横の廊下溜りの壁に短冊が七八枚ならびかけてあった。その中にこの一句があった。東京療養所には、当時「松濤」といふ謄写版刷の俳句の雑誌がでてゐて、所内に会員が四、五十人ゐるやうであった。一灯君は隣の清心園の患者であったが、「松濤」の選者 瀧春一氏が一灯君の所属する「暖流」の主催者だった関係で、一灯君も「松濤」の所外会員になってゐたのだと思ふ。

波郷が目をとめた一句の「しどみ」は早春に鮮やかな朱の花を咲かせる草木瓜(くさぼけ)のこと。
療養所の庭にしどみの紅が滴る春、いつ起き上がれるかわからない患者がわずかに焼け残った背広を売ってもらい、その金が届いたのを「わびしい喜びとしてゐるのである」と波郷。「作者の境涯には春ひらく日はなお遠い」。

ときは昭和23年。波郷は東京療養所の一番南にあった病棟、七寮の一室で手術が受けられる日を待っていました。
10月、いよいよ待望の手術の日を迎えようとする波郷のもとを「隣の清心園」の小川一灯が杖を手に訪ねています。
初めての対面でした。

永い結核患者特有の顔色の頬に親しい微笑みをうかべ、色褪せた國民服を着てゐた。
 鵙日和(もずびより)咳兆す顔をそむけあふ
の一句はこの時の一灯君の句である。

 

昭和20年代前半といえば、まだ薬による結核の化学療法が広まる前で、「大気・安静・栄養」の時代。入院も年単位の期間に及びました。
長い療養生活の中で、俳句や短歌を詠むことを心の支えとした人も多かったのです。
小川一灯もまた、療養所で俳句にとりくんだひとりでした。

「青桐」昭和25年10月号表紙

「青桐」も、療養所の句誌のひとつです。左の写真は「青桐」昭和25年10月号の表紙。
発行人は「清心療養園青桐俳句會 小川誠治」。一灯です。編集も一灯。

この号は「喜多あざみ追悼号」とあり、遺作を掲載、療友が想い出を寄せています。
また、前の月に病棟のベランダで行われた名月句会の作品から、石田波郷選、齋藤玄選と併せて、席題互選結果も掲載されています。
この句誌は全31ページ。
「御寄附御寄贈御禮」の欄には、東京療養所松濤会から「松濤」、石田波郷から「学苑」「棕梠」各9月号の寄贈を受けたことへのお礼など。
このほか寄贈者には神奈川療養所や箱根療養所などの名もあり、句誌を媒介に療養所間の交流があったことがうかがえます。

昭和20年代、結核の死亡率はまだまだ高く、療養所の表門から晴れて退所できる人ばかりではありませんでした。
「青桐」を主宰し、句誌の編集も発行もこなした一灯も、残念ながら病状が年々悪化し、退所かなわず昭和28年の夏、永眠。闘病の句を残しつつ逝った37年の生涯でした。
瀧春一、石田波郷が序文を寄せた追悼句集が、仲間の手によって出されたのは翌春のことです。

 

正岡子規をはじめ多くの俳人が結核にかかり病床での作品を遺しましたが、わけても療養患者に大きな影響を与えたのは、石田波郷の『惜命』であったといわれます。
波郷が療養者の憂いや悲しみの感情を逸らすことなく、調べ高く詠みあげたことで、患者たちの心は慰められ救われたとも。
そして療養所の俳句においても、病棟の生活場面が詠まれ、検査値に一喜一憂する自らの姿や病床に届く鳥の声、病室から見える風景が詠まれました。
療養所の句誌は、当時の日常を語る有名無名の結核患者の作品集なのです。

清瀬の病院街には、いっときは十を超える結核療養所がありました。
療養所の沿革は周年誌などでたどることができますが、一帯で5千人に及ぶともいわれた患者の日々の療養生活のようすは、こうした同人誌に掲載された俳句や短歌や詩、随想などからの読み取りによるところが大きいといえます。
石田波郷、上田三四二、福永武彦、結城昌治、吉行淳之介らの作品のみならず、あまたの無名の療養俳人詩人たちの言葉に触れられれば、そこから見えてくるものがあるはずです。

特に「大気・安静・栄養」の時代の療養生活について、直接お話を伺うことが難しくなっている今、療養所の文芸同人誌は重要な情報源で、こうした冊子を探しています。

清瀬で療養経験をお持ちの方をご存じでしたら、押し入れの奥の方にこうした冊子が眠っていないか訊いてみていただけませんか。
情報をお待ちしています。

 

<東京療養所と「隣の清心園」について>
東京療養所は、昭和14年(1939)に傷痍軍人東京療養所として開設された結核療養所。昭和20年国立東京療養所となる。現在の国立病院機構東京病院と日本社会事業大学とを合わせた広い敷地にあった千床規模の大きな療養所。昭和37年、国立療養所清瀬病院(開設時東京府立清瀬病院)と合併し国立療養所東京病院となる。現・国立病院機構東京病院。
一方、「隣の清心園」は、現在の救世軍清瀬病院のこと。東京療養所と同じく昭和14年、現在地に開設された。国際的なキリスト教(プロテスタント)の団体による療養所で、200床ほどの規模。開設当時の名称は「救世軍清瀬療養園」。昭和17年「清心療養園」昭和21年「救世軍清心療養園」昭和47年「救世軍清瀬病院」に改称。

<掲載資料について>
「松濤」昭和25年1月号 江東区砂町文化センター石田波郷記念館所蔵 画像提供同館
「青桐」昭和25年10月号 清瀬市企画部市史編さん室所蔵

<引用について>
石田波郷『清瀬村』からの引用は、昭和31年刊角川文庫版による。いずれも「療養花暦」のなかの一節。引用にあたって漢字は常用漢字に改めた。

<参考>
楠本憲吉「解説」(石田波郷『定本 石田波郷全句集』創元社 昭和29年)
赤城さかえ「解説」(石田波郷『清瀬村』角川文庫 昭和31年)
宗田安正「俳人結城昌治管見」(『俳句の現在 別巻 I 安東次男集 塚本邦雄集 結城昌治集』三一書房 昭和62年)
宗田安正『昭和の名句集を読む』本阿弥書店 平成16年

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