第5回 戦中・終戦直後の清瀬駅(令和6年2月1日号)
清瀬駅の南側に昭和6年に東京府立清瀬病院が誕生して以降、その周辺には戦前~戦中にかけて数多くの結核療養所が建設されました。ここに現在の「医療のまち きよせ」の前身である「結核のまち」が誕生しました。
この頃から各病院へのお見舞いへ向かう人が利用する駅となり、開業当時は1日数十人程度の乗降客数であった清瀬駅は、1日乗降客数が徐々に増加していきました。昭和10年(1935)には1日の乗降客数が286人であったものが、昭和20年(1945)になると、1日の乗降客数が3,000人にさらに増加しました。
また、当時の記録として昭和19年(1944)~昭和28年(1953)の間、清瀬駅の東側にL字型のコンクリート製の屎尿貯留槽が存在していました。この屎尿貯留槽は、当時の食糧不足と都心部の屎尿問題を解決するために武蔵野鉄道(昭和21年西武鉄道株式会社になる)が行っていた鉄道による屎尿運搬専用の施設です。当時は屎尿発送専用の駅であった東長崎と江古田駅の間に存在していた長江駅(後、西武市場駅となり昭和38年に廃駅)から屎尿荷降し場のある駅へ屎尿が運搬されており、その1つが清瀬駅でした。
この駅前の屎尿貯留槽は、当時の住んでいた人や乗客の話で度々出てくるほど記憶に残る施設だったようで、臭いで清瀬駅に近づいたことが分かると言われるほどだったそうです。
より良いウェブサイトにするために、ページのご感想をお聞かせください。
このページに関するお問い合わせ
清瀬市役所
〒204-8511
東京都清瀬市中里5丁目842番地
電話番号(代表):042-492-5111