市史編さん草子「市史で候」 二十四の巻 「結核と清瀬」

ページ番号1001972  更新日 2020年8月30日

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市史編さん草子(ぞうし)「市史で候(そうろう)」 市史爺(ししじい) 清瀬市は、昭和45(1970)年10月1日誕生。市制施行50周年を視野に入れ、現在、清瀬の歴史をまとめる事業を展開中です。当ブログでは事業の経過報告のほか、清瀬の歴史や文化、自然を楽しくご紹介しています。

二十四の巻:「結核と清瀬」【平成28年3月24日更新】

中央図書館には結核関連資料のコーナーができたし結核研究所図書室の未公開資料の特別展示もやってるし(3月11~25日午前)結核って、清瀬にとってなにか特別な意味がある?

二十四の巻では「結核と清瀬」と題して、その問いにお答えしましょう。

I.療養所の街

病院街のなりたち

清瀬は、野塩、中里、清戸下宿、上清戸、中清戸、下清戸から成る静かな農村で無医村でした。大正4(1915)年に池袋と飯能を結ぶ武蔵野鉄道(現・西武鉄道)の線路が敷かれましたが、線路の南側、今の病院街の辺りは、村の人達が利用していた雑木林でした。

その雑木林の中に、昭和6(1931)年の東京府立清瀬病院開設を皮切りに、次々に結核療養所が建てられました。

清瀬の一大療養所群

清瀬より古い結核療養所は他にもありました。高原や海辺のサナトリウムを思い浮かべる方も多いことでしょう。

清瀬の療養所は昭和に入ってからできたものですが、その数は、多いときには10を超え、療養患者の数は5千人を超えていたといいます。都心からの距離も比較的近く、しかも電車の駅からそう遠くない所に、これほど多くの結核療養所が集中して病院街を形成したのは全国的に見ても珍しいことで、清瀬の大きな特徴です。

II.結核との闘いの歴史

結核の蔓延と療養所

結核は古い病気ですが、日本では明治以降の産業革命による人口集中にともなって蔓延し、治療薬もなかったことから不治の病として恐れられました。昭和のはじめ、東京にあった公立の結核療養所は江古田の東京市療養所*のみでした。あふれる結核患者を収容するため、東京府は清瀬に府立清瀬病院を開設しました。昭和6年の秋のことです。

*のちの国立療養所中野病院。跡地は江古田の森公園の一部。

結核患者の数は、昭和10年代、戦争の深刻化とともに増加、終戦後の混乱でさらに増加しました。結核で亡くなる人も多く、死因1位の病気でした。亡国病とも呼ばれ、恐れられ嫌われていた結核でしたから、療養所のための土地探しはたいへんな仕事でした。民家の傍には建てられません。清瀬には、府立清瀬病院の周囲にまだ広大な雑木林が残されていましたから、そこに時代の要請を受けて結核療養所が次々に建てられていったのはいわば当然のなりゆきでした。

療養の時代から治療の時代へ

戦後、有効な結核治療薬が使えるようになるまで、結核に向き合うには「大気・安静・栄養」つまり、きれいな空気の中で、安静にし、栄養をとって体力をつけるという療養の時代が続いていました。雑木林の中に建てられた清瀬の療養所は、この環境にぴったりでした。

医療技術の進歩にともなって、外科手術も、肋骨を何本か切除して肺に圧を加え結核菌をとじこめようという胸郭成形術から、肺の病巣部分だけを切除する肺切除術へと変わりました。また、有効な治療薬による化学療法が行われるようになって結核は治る病気になり、入院期間もずっと短くなりました。

結核の今

とはいえ、日本の結核は根絶されたわけではありません。日本はいまだ結核中蔓延国にとどまっています。いまなお感染例があり、注意が促されているところです。また、薬に対する耐性を持つ結核の例もあって、新たな課題となっています。

III.結核との闘いから生み出されたもの

Kiyose’s Knowledge

医学面では、胸部X線写真読影法の開発や外科療法の開拓がなされました。清瀬の代表的な施設で生み出された結核の診断や治療法が全国に普及、結核病学のリーダー的役割を果たしてきました。

そして、清瀬で培われた結核対策の英知は、国内研修のみならず、50年以上続いている国際研修コースを通じて世界のドクター達に受け継がれています。世界のあちらこちらにKIYOSEの名をなつかしく思う人たちがいます。

リハビリテーションの科学と実践

単なる機能回復だけでなく病後の社会復帰までを視野に入れた広い意味でのリハビリテーションについて、清瀬には早くから関心を寄せたドクター達がいました。欧州留学で学んだリハビリテーションも療養所で実践に移されました。病棟での療養から回復期の作業療法まで一貫した療養体系があり、また、病院街のなかには回復期の患者が職業訓練を受けられる後保護施設もあって、職業的リハビリテーションとも密接につながっていました。特に臨床検査技師については、専門の養成所に発展し、卒業生の回復後の就職を確実なものにしました。

こうした土壌もあって、リハビリテーションを支える専門家である理学療法士、作業療法士の養成は、清瀬で始まりました。「東京病院附属リハビリテーション学院」は、日本のリハビリテーションの礎石を築く卒業生を送り出したのです。

文学

清瀬で生まれたものは医療に関することばかりではありません。

石田波郷は東京療養所に入院していました。療養の日々、生と死を見つめる中で生みだされた句を編んだ句集『惜命』は、まさに結核との闘いから生まれたもので、療養俳句の金字塔と言われています。

同じく東京療養所で療養の日々を過ごした福永武彦の小説『草の花』など、療養生活を反映した作品も生み出されました。

IV.そして、今

一般病院への移行と結核病床

結核療養所として始まった病院のうち、7施設は現在も開設時と同じ場所で医療を続けています。結核患者の減少にともなっていずれも結核専門病院から一般病院に転じましたが、このうち3施設では現在もなお結核病床が維持されています。都内全域を見ても結核病床のある病院は14施設、多摩地区に限れば7施設です。そのうちの3施設が清瀬の病院街にあることは特筆すべきことでしょう。

かたちを変えて

最初にできた結核療養所「府立清瀬病院」の病棟跡地には、清瀬中央公園、国立看護大学校ができ、もと東京療養所の敷地一部には、日本社会事業大学ができました。村の小学生が療養所の前を鼻をつまんで走り過ぎたという時代ははるか遠く、病院周辺の住宅も増えました。憩いの緑を残しつつ病院街が維持され、そのなかに市民生活と隣接して結核はもとより看護、福祉分野の研究拠点があることは、結核療養を支えてきた清瀬が誇りとするところです。

思い出の地、生活の地

化学療法が導入されるまで、結核の療養には長い時間を要しました。多くの結核患者にとって、清瀬の地は懸命に治癒を目指して療養生活を送った思い出の地に他なりません。

生まれた土地を離れて清瀬の療養所に入った人もいましたが、なかには結核が治って療養所を出たのちも清瀬を生活の地とした人が少なからずいました。病院が近くて安心だからというだけでなく、療養生活をおくるうちに愛着がわき、退所後も清瀬で暮らすことにしたのだとききます。

結核と清瀬のかかわりについて駆け足でお話しました。

ちなみに毎年3月24日は「世界結核デー World TB Day」です。
ロベルト・コッホ博士が結核菌の発見を発表した日を記念して制定されました。
この日にちなんで今回のテーマは「結核と清瀬」。

ここでは大まかなお話にとどまっています。
あれ?あのことは?と思われた方、詳しくは下記をご覧ください。

病院名の変遷など詳細は、市史編さんブログ「市史で候」五の巻「病院街の歴史紹介シリーズ」にてご紹介しています。

「市史で候」五の巻 病院街の歴史紹介シリーズ

  • 第1回 病院街の変遷 その1
  • 第2回 病院街の変遷 その2
  • 第3回 文学編
  • 第4回 リハビリの専門教育発祥の地 きよせ
  • 第5回 「安眠ゾーン」が見てきたもの

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