市史編さん草子「市史で候」 二十の巻 「石田波郷と清瀬」

ページ番号1001976  更新日 2020年9月25日

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市史編さん草子(ぞうし)「市史で候(そうろう)」 市史爺(ししじい) 清瀬市は、昭和45(1970)年10月1日誕生。市制施行50周年を視野に入れ、現在、清瀬の歴史をまとめる事業を展開中です。当ブログでは事業の経過報告のほか、清瀬の歴史や文化、自然を楽しくご紹介しています。

二十の巻「石田波郷と清瀬」【平成27年11月16日更新】

松山 砂町 そして清瀬
俳人 石田波郷「第三の故郷」に
いま 想いを馳せる

これは今、江東区砂町文化センター石田波郷記念館で開かれている企画展「石田波郷と清瀬」(平成27年11月15日~12月13日開催)のチラシに書かれている文言です。

石田波郷(いしだ はきょう)は、昭和を代表する俳人です。
そう。あの五・七・五の俳句一本で身を立てた俳句のプロでした。

大正2(1913)年、愛媛県の松山で生まれ、旧制中学卒業後上京、俳誌『馬酔木(あしび)』の編集に携わります。
結婚し、家族と暮らした地が江東区砂町でした。
従軍中に結核を発症。送還され一時軽快したものの、戦後再発。
療養の日々を清瀬の国立東京療養所(現・独立行政法人国立病院機構東京病院)で過ごしました。

最初の入院は、昭和23(1948)年5月から25(1950)年2月まで。

外科の宮本忍医師の本を読んでこの先生の治療を受けようと東京療養所入所を決意したのでした。

波郷は比較的早く入所できましたが、当時、結核療養所の病床数より入所希望の患者数の方がずっと多く、入所を待っている間に症状が悪化して、やっと入所できても治癒に向かわず命を落とす人も少なくありませんでした。
 

綿虫やそこは屍(かばね)の出でゆく門


これは、石田波郷『惜命(しゃくみょう)』の「屍の眺め」に収められた一句です。
入所時はみな正門から入りますが、亡くなると霊安室に近い専用の門から療養所を出ることになります。
林の中の小径を霊安室へと亡骸が運ばれていく。それは、珍しい光景ではありませんでした。

当時、結核は死亡原因の第1位。
不治の病といわれていましたから、自分はいつどうなるか、生と死を見つめる時間が流れていたといえるでしょう。
こうした療養の日々に詠まれた句が、句集『惜命』に収められています。

もちろん、亡くなる方ばかりではなく、快方に向かい、病室から外気舎に移り、畑作業などの作業療法を経て、晴れて正門から退所していく人もいました。


療養所内では患者仲間の交流もあり、俳句の会もありました。

東京療養所には『松濤(しょうとう)』というガリ版刷りの俳句誌があり、波郷は入所中の昭和24(1949)年から退所後も27(1952)年春まで選句を担当しました。

波郷の病室は「南七寮六番室」でしたが、同じ七寮の患者だけの句会「七曜会」は、波郷の提案で始まったといいます。
寝たきりの患者が多いので、回覧式にして無記名で互選する句会でした。

療養所で波郷に出会い、影響を受けて俳句を作り始めた結城昌治(ゆうき しょうじ)に『死もまた愉(たの)し』という著作があります。
このなかに、波郷のことが出てきます。少し長いのですが引用してみましょう。
 

「私が入所したころ、波郷さんは二度の手術で肋骨を七本取ったあとでした。あるとき、雑談していたら、ふと波郷さんが「命が惜しいからね……」「もう少し生きなければ」ともらしました。それを聞いたときの驚きは、いまでも忘れません。より正しくは驚いた自分に気がついて驚いたというべきでしょう。戦時中の“死にたい病”が尾を引いていて、命を軽んずる気持ちが残っていたのです。波郷さんの言葉に目を開かれた思いで、すくなくとも、その瞬間は急に死が怖ろしく感じられたのを憶えています。」(結城昌治『死もまた愉し』講談社 2001)


最初の入院中に、波郷は二度にわたる胸郭成形術、続いて肋膜外合成樹脂球充填術、という計3回の手術をうけています。

昭和25(1950)年のお正月を、波郷は外泊許可をもらって砂町の家で迎えました。
まだ北口だけだった清瀬駅から電車に乗り、焦土の砂町へ。
家族と楽しく数日過ごしたものの、療養所に戻り「自分のベッドにふかふかともぐりこんで、開放した窓外の冬木の群を眺めたとき、「こここそ、わが住むべき所だ」と、しみじみ感じた」(石田波郷『清瀬村』四季社 1952)というのですから、いかにも清瀬は波郷の心の故郷にちがいありません。

同年2月、退所。自宅で療養しながら仕事をすることにして、砂町へ戻ります。
この年11月、『惜命』刊行。

その後、清瀬に関連する仕事だけでも、昭和27(1952)年には随筆集『清瀬村』を、30(1955)年には『定稿惜命』を刊行、32(1957)年には清瀬中学校校歌を作詞しています。

昭和38(1963)年、最初の入院時の手術で入れた合成樹脂球による炎症を起こし、樹脂球摘出のため入院。
前回と同じ病院ですが、このときの病院名は「国立療養所東京病院」となっていました。
前の年、元・国立東京療養所は、現在波郷の句碑がたてられている場所にあった元・国立療養所清瀬病院(開設時は東京府立清瀬病院)と統合され、新しい名前になっていたのです。
久しぶりに清瀬に戻った波郷の驚きは、14~5年前に歩いた野火止の川のほとりが住宅地になっていたことでした。

同年退院し小康状態を保つものの、昭和40(1965)年以降、肺炎、呼吸困難、気管支炎により入退院を繰り返し、44(1969)年11月21日東京病院にて逝去。

死の翌年刊行された『酒中花(しゅちゅうか)以後』に次のような句が収められています。


今生は病む生なりき烏頭(とりかぶと)


波郷の生涯は結核とともにあり、清瀬は惜命の闘いの地でありました。


チラシ:2015年に江東区砂町文化センターで開催された企画展「石田波郷と清瀬」

清瀬では、この地で療養し多くの句を生み出した波郷を記念し、石田波郷俳句大会が平成21(2009)年から毎年開催されています。

第7回を迎えた今年の大会では、投稿総数が1万1千句を超えました。
特に、30歳以下の若手を対象とする「新人賞」の評価は高く、俳句界の注目を集める俳句大会となっています。
また、俳句大会関係者による市内の小学校への出前俳句教室も功を奏し、ジュニアの部の投稿句も増えています。
 

新しい交流の兆しも見え始めました。
今年、平成27年5月、江東区石田波郷記念館主催俳句鑑賞講座の外出講座が清瀬で行われました。
波郷ゆかりの病院街の歴史に触れ散策する試みです。
清瀬の石田波郷俳句大会関係者が受入れをサポート。
また、この日は昭和20年代の末から現在までずっと病院街を見ていらした結核予防会の島尾忠男先生もご参加、道々、昔の様子などお話しくださいました。

そして、今回の展示です。
60年あまり前、波郷が家族の元から療養所へ向かった道をたどって、のちの人々の縁が結ばれようとしています。

「石田波郷と清瀬」
江東区砂町で清瀬の展示を見る。
いいかも。

 

  • *記事の作成にあたっては、上記2冊のほか、結城昌治『俳句つれづれ草』(朝日新聞社,1988)、『石田波郷全集 別巻』(角川書店,1972)の年譜等を参考にしました。
  • *句の掲載については、著作権者の許可を得ています。また企画展「石田波郷と清瀬」のチラシ写真については石田波郷記念館の許可を得て掲載しています。

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