市史編さん草子「市史で候」 五の巻(4) 「日本の「リハビリ」専門教育発祥の地 きよせ」

ページ番号1001993  更新日 2020年9月28日

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市史編さん草子(ぞうし)「市史で候(そうろう)」 市史爺(ししじい) 清瀬市は、昭和45(1970)年10月1日誕生。市制施行50周年を視野に入れ、現在、清瀬の歴史をまとめる事業を展開中です。当ブログでは事業の経過報告のほか、清瀬の歴史や文化、自然を楽しくご紹介しています。

五の巻之四「病院街の歴史紹介シリーズ第4回 日本の「リハビリ」専門教育発祥の地 きよせ」【平成26年12月12日更新分】

久しぶりに病院街の歴史紹介シリーズです。
第4回では、「東京病院付属リハビリテーション学院」についてお話しましょう。

「リハビリ」という言葉は、もうすっかりおなじみの「日本語」ですが、もともとは rehabilitation リハビリテーションという英語です。

普段、私たちが「リハビリ」というとき、病気やケガなどで低下した体の機能を、回復させたり改善させたりする訓練風景をイメージしていますね。

こうした医学的な面だけでなく、本来、リハビリテーションは、精神的、社会的な面も含めて、障害のある人や高齢者が生き生きと社会で生活できるようにするための取組みとして、広くとらえられています。日本の医療に、リハビリテーションの手法が導入されたのは、戦後のことです。

そのスタートを担った専門家たちを養成したのが、清瀬の東京病院付属リハビリテーション学院でした。

日本のリハビリ専門教育は清瀬で始まったのです。

リハビリテーション学院は、国内で最初にできた理学療法士(Physical Therapist,略称PT)、作業療法士(Occupational Therapist,略称OT)の専門養成施設でした。

どこにあったかというと…

配置図:リハビリテーション学院の校舎配置図

梅園1-2-7。

複十字病院の斜め向かい、都立小児病院の東隣にありました。
上の校舎配置図でいうと図の左側が小児病院、右下が複十字病院です。

開校当時の校舎は、東京病院清瀬病棟(もと府立清瀬病院)の建物を改造したものでした。
「旧炊事場の改造建物を1教室、1事務室、1応接室と校舎にした」と「学院の沿革」*にあります。

写真:リハビリテーション学院開校式の様子

リハビリテーション学院は、昭和38(1963)年5月1日、国立療養所東京病院付属の機関として開校しました。

写真は、開校式の様子です。
この年、昭和38(1963)年、東京大学の医学部にはリハビリテーション部が開設され、日本リハビリテーション医学会が発足。
まさに、始まりの年だったのですね。


写真:リハビリテーション学院授業風景

リハビリテーション学院の最初の教員は、イギリスやアメリカから招かれた専門家たち。
授業は英語。

臨床実習は、東京周辺の米駐留軍病院の施設と関係者の協力を得て実施されました。

卒業生が当時を振り返って記した文章には、
「実習先は米軍のキャンプ先が中心でベトナム帰りの傷痍(しょうい)軍人を対象に指導者にしごかれたものである」「そうしてまでも教育の水準を世界的レベルでやろうと努力された多くの関係者、(個人名を列挙)、多くの外国人教師に感謝したい」
とあります。

昭和40年代半ば以降は日本人専門家による教育になり、実習も国内の国公私立病院などの施設で行われるようになりました。

理学療法学科、作業療法学科ともに1クラス、入学定員20名。修業年限3年。社会人経験を経て入学してきた学生も多く、新しい知識、技術を真剣に、熱心に学んだといいます。

平成20(2008)年4月1日に閉校されるまでに、理学療法学科784名、作業療法学科730名、総計1,514名の卒業生を全国に送り出しました。

清瀬は、日本のリハビリの礎石を築いた人たちの学びの地だったのですね。


それにしても、なぜ、清瀬だったのでしょう。

そこには、新しい治療法に関心を寄せた清瀬のドクター達の姿がありました。

結核研究所の島尾忠男所長は、昭和30年春から1年間、スウェーデンに留学。結核対策や社会福祉から公衆衛生までを学ぶなかで、理学療法士の存在や患者の運動療法にも注目。スウェーデン語で書かれた専門書を帰路の船中で翻訳し、帰国後昭和32(1957)年、『肺機能訓練療法』として結核予防会から出版。日本語で理学療法を紹介します。

東京療養所の長澤誠司医長は、昭和32(1957)年に留学。帰国後、理学療法を取り入れて病院の作業患者に体操を始めるなどしたのは、留学先イタリアの療養所での経験が反映されたものでした。

昭和36(1961)年には、東京療養所の芳賀敏彦医師がデンマークに留学。リハビリテーションの実際とPT(理学療法士)、OT(作業療法士)の教育に関心を持ち、世界PT連盟の関係者にも連絡をとり、養成の世界的傾向を把握して帰国。昭和37(1962)年9月、日本医事新報に「Physiotherapist養成のすすめ 外国のPT教育体系について」**を発表します。

社会的な要請もありました。

昭和38(1963)年には、医療制度審議会が「医療制度全般についての改善の基本方策に関する答申」のなかで、PT(理学療法士)、OT(作業療法士)などについて教育、業務内容の確立等、その制度化を早急に図る必要があると指摘します。

 

リハビリテーション学院は、こういった流れの中で開設されたのです。

それは、昭和37(1962)年、清瀬病院と東京療養所が合併して東京病院となって最初の大きな事業でもありました。

『リハビリテーション学院閉校記念誌』(2008)のなかで、長澤誠司第3代学院長・名誉院長は、次のように述べています。

「永年、東京病院の院長であった砂原茂一先生はリハビリテーション(以下リハ)への造詣(ぞうけい)、関心が深く、結核恢復期(かいふくき)患者の作業療法病棟(外気病棟)を設け、また呼吸器外科のリハを行っていた。そんな理由で、日本で最初のリハの学校が東京病院付属として誕生した。その後の様子は関係者によって記されるでしょう。閉校は栄光の撤退である。リハ学院おめでとう」

病院街に最初にできた府立清瀬病院(後の東京病院清瀬病棟)の敷地に、日本初のリハビリテーション教育施設があったのです。

梅園は、清瀬の病院街の、そして日本のリハビリ専門教育の「始まり」の地なのですね。

 

清瀬から巣立ったリハビリテーション学院の卒業生たちは全国の医療現場で活躍し、研究を続け、明日のリハビリの担い手を育てています。

学院の「親元」東京病院でも、現在に至るまで毎年1回のリハビリテーション研修という形でリハビリ教育の灯が続いていることを言い添えて、五の巻之四おわりといたしましょう。

写真:リハビリテーション学院跡地に建てられた記念碑

リハビリテーション学院跡地に建てられた記念碑の碑文

わが国最初の理学療法士、および作業療法士専門養成施設発祥の地。
国立療養所東京病院付属リハビリテーション学院
昭和38年5月1日厚生省によって設立された。
初代学院長 砂原茂一
パイオニア精神に基づいた全人的医療教育が行われた。
独立行政法人国立病院機構東京病院付属リハビリテーション学院として平成20年4月1日閉校となる。

  • 文中の肩書は、それぞれ当時のものです。
  • 『リハビリテーション学院閉校記念誌』、砂原茂一、上田敏、芳賀敏彦各氏の著書等を参考にしました。
  • *校舎配置図、写真、引用文は、『リハビリテーション学院閉校記念誌』より、東京病院の許可を得て掲載しています。
  • **Physical Therapistは米国式、Physiotherapistは英国式の言い方です。

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